2009年04月14日

仙台市 青葉通り 「曲直問題」

★★★




第2次世界大戦後の昭和21年、

仙台市は「仙台空襲」で壊滅した市街地に、幅広い道路、

市道の「仙台駅川内線建設」が盛り込んだ。


これが現在の「青葉通り」である。


河北新報紙上で通りの名が公募されて、投票で1位を得たのが

「青葉通り」だったそうだ。






地図で、青葉通りが、直線的になっていない事が分かるだろうか?


仙台駅前から、愛宕上杉通りのあたりで、10度、曲がっているのだ。

西公園付近でも曲がっている。


特に駅前付近の10度の曲がりについて、直線にするべきだという

主張と、曲線にするべきだという主張が対立し、「曲直問題」として、

戦後すぐの仙台市、最大の政治問題になった。


これを知らない方も、今となっては多いと思う。

今となっては、どうでもいいんじゃない?と思う方も多いとは思うが、

当時では大問題だったようだ。


市議会は、空襲で焼けた駅舎を新設すべく、当時計画中の新駅舎の

位置を移動させるという条件を付けた。

しかし仙台市は技術的に駅は絶対に移動できないと説明し、

事態は当時の岡崎栄松市長と、市議会の全面対決に発展した。


「曲直問題」は、青葉通りの計画道路の住民立ち退きの利害が

関係していて、さらに当時の運輸省などは、仙台駅の位置変更に

否定的な回答を出した。


そして、

「一松定吉建設院総裁」に判断を仰ぎ決定を委ねることになった。


一松氏は、仙台を訪れた上で「曲線」を決定。


青葉通りは仙台市の原案通りに10度曲げて、現在の状態にするように

なったのだ。


直線派は、このときの議論で曲がった道路の見栄えの悪さと

交通困難を理由に挙げたが、現在の市民からそうした点についての

不満はないようだ。


個人的には、曲がっていた方が景観的にも良いような気もするが・・。


ただ、その後に仙台駅はさらに大きくなっていったため、

青葉通りは仙台駅正面に存在せず、駅の北側にぶつかるように

なっている。


当時の議論で「曲線」ではなく「直線」になったとしても、

駅の北側に突き当たるようになっているようだ。


どちらかといえば、遠方からきた人は、仙台駅の真正面に

メイン通りであるはずの「青葉通り」が存在していないことの方が

気になるようである。

その理由は、上記の通り

「仙台駅がドンドン大きくなっていったために中心がズレた」ためだ。


青葉通りの建設は、昭和25年に開始され、昭和49年に完成。

青葉通りの象徴であるケヤキ並木は、昭和25年頃から昭和40年頃

までに植えられた。

戦前の仙台市は、豊富な屋敷林によって市街に樹木が豊富な都市で、

このあたりで「杜の都」の名をとっているようだ。

しかしそれが空襲で焼き払われると一転、緑に乏しい街になって

しまった。

仙台市にとって、広くとった道路に新設する街路樹は街に樹木を

取り戻すためのものであった。

戦後の青葉通りは、当社の資料にもあるが、ケヤキが無く、

ビルもないことから、もの凄く広く見える。


当時は飛行場でも造るのか?と言われたほど広く感じられたそうだが、

今や、かなり狭く感じるのは、私だけではないと思う。


当初、ケヤキは愛宕上杉通りと交差点から東一番丁通りとの交差点

までの歩道側だけに植えられたが、やがてケヤキ並木の評判が高まり、

定禅寺通りとあわせて杜の都のシンボルとされるようになっている。




★★★


posted by ハルさん at 05:00| 宮城 晴れ| Comment(0) | TrackBack(0) | 仙台市 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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