撮影・株式会社東北記録映画社
ヤンヤンヤヤーン、八木山の〜ベニーランドはでっかい夢の♪
というCM音楽は、仙台、東北地域で流れていたため、
一度は耳にしたことがある遊園地の名前。
仙台市内からは、一番近い遊園地。
隣には八木山動物公園もあり、子供たちには夢の場所。
実は、八木山ベニーランドは桜も多く、花見も出来ることを
知っている人はそんなに多くないかも知れない。
写真でお分かりのように、園内全域に広がっている。
八木山の周辺では、有名なところで「西公園」「三神峯公園」が
あるが、このベニーランドも名所の一つ。
桜の時期の土日に、夜桜祭りもあり、
「入園無料」で入れる時期もある。
今年は4/11.12でした。
さて、この八木山という地名ですけど、知られているようで知られて
いないことが結構あるようです。
八木山の元々の名前は「越路山」といいます。
明治30年頃に、政府の買い上げ、炭坑・埋木を掘るために、
民間にも買い上げられていました。
当時、八木家4代目 八木久兵衛氏という富豪の方がいました。
4代目、5代目は同名で、この2代で八木山が築かれています。
4代目八木久兵衛氏は、8千株近くの「日本鉄道」株を持っていて、
仙台財界に重きをなしており、七十七銀行の頭取、商工会議所会頭に
もなっていました。
さらに、日本鉄道が国有になったことにより巨万の富を得ました。
当時の越路山は、江戸時代は伊達藩により保護されてきましたが、
明治維新後は様々な事情から荒廃が進み、それに傷心した八木氏が
現在の「八木山」を買い取ったという経緯です。
それから、所有地の一部を県に寄付してから、
越路山から八木山の名称が付いています。
75歳で生涯を閉じましたが、八木山のことは「紅久会社」に遺命。
紅久会社は、江戸時代から「紅久」という店で、化粧に使う紅や
味噌造りなどで財を築いた豪商として知られています。
八木氏は大正から昭和初期の時代、仙台が全国の都市の中で
死亡率第3位という状態にあったことから、体力増進のため
ピクニック道路を造り運動場や遊園地を作ろうと八木山の開発に
取り組みました。
「自然を守る」という前提で取り組んだようですが・・・・。
昭和4年に、「八木山球場」が建造されました。
昭和9年には、日米野球でベーブ・ルースがホームランを打ったこと
でも有名です。
八木山動物園は、この八木山球場の跡地にできたものです。
八木氏は、この八木山球場を、完成後に県に寄付しています。
昭和8年には竜の口渓谷に全国に前例のない、つり橋を完成させ、
青葉山から八木山への道を作りました。
これが、今の「八木山橋」の原型です。
その後、この八木山橋も球場同様に寄付しています。
現在の状態は、デビターク方式のプレストレストコンクリート橋で、
昭和40年に全国で2番目、当時では最新技術の方式で
架け替えられています。
ちなみに、初めての八木山へのルートは、前述の八木山橋ではなく、
大正15年、現在のバス停留所「八木山入り口」がある長徳寺前から
動物園付近と言われています。
八木山の初めての住宅地は、この向山ルート沿いにある
「八木山緑町」です。
そして、八木山ベニーランドは、 昭和43年、東北初の総合遊園地と
して開園しました。経営は「株式会社エイトリー」です。
ちなみに、八木山動物公園は昭和41年です。
その後、昭和57年に、八木山の大病院である「日赤病院」が開業。
小児医療は特に有名です。
これが根拠かどうかは不明ですが、昭和40年代、八木山宅地造成が
進んでいたため、もの凄い数の人口増加が進み、昭和46年に開校した
八木山小学校は、ピークで1200人ほどの生徒数がおり、
南八木山小学校、芦ノ口小学校が順次出来ても、このくらいの人数が
在籍していました。
子供が極端に多いマンモス校だった訳ですね。
しかし現在の八木山では、高齢化が同時に進み、当時のパワーは
なくなってきています。
昭和46年に開校した八木山小学校も、平成12年に改築され、
4階建ての校舎が3階建てになりました。
今や、新入生が100を切っている状況のようです。
八木山を活気づけるためには、若い力が必要なのでしょう。
参考資料:河北新報社「八木山物語」より
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