2010年04月25日

八木山開発の流れ 八木山の時報 「愛の鐘」

★★★




「八木山」の標高は、高い所で標高200メートルくらいだそうです。



八木山開発の波が押し寄せたのが、昭和30年初期。


八木山緑町付近から開始され、「八木山弥生町」「松波町」と

広がります。

「緑ヶ丘」も鹿野方面から造成を開始します。



そして「東北放送」「東北工大高校」「東北工業大学」が順に設立。



昭和39年に現在の「八木山橋」が新しく架け替えられ完成。



翌年の昭和40年に「八木山動物公園」、

昭和43年の「八木山ベニーランド」と続きます。




この間、昭和30年後期から40年中頃にかけて、

「桜木町」「恵和町」「青山」「若葉町」「松が丘」「八木山本町」

「八興」が順に開発されていきました。



この頃、宅地としては綺麗に造成されましたが、

「砂漠地帯」のような状態です。



宅地として造成されても、

道路など、今のような、ビシッとしたアスファルトで舗装されている

訳ではありませんでした。



この時期、「西の平」への交通の便は、まったく整備されておらず、

当時からこの界隈に住んでいた方は、現在のような生活条件は

まったく整っていなかったといいます。



「無計画乱開発」という状況だったのです。



道路、バスなどの交通アクセスはもちろんですが、

下水道などにも及んでいました。


当時の八木山エリアからの汚水は、

川に垂れ流しという状態になっており、

八木山より下流側は、汚水で大変な状態になっていたと言います。




昭和46年、八木山小学校が完成しました。


この時期は、今では考えられませんが、

生徒数はパンク状態で、教室が足らない現状までありました。



完成当時の八木山小学校は「増築」を繰り返しており、

初年度は体育館もない状態。 

体育館は昭和48年度に完成しています。



初年度は652名、47年度は897名、48年度は1152名

まで膨れあがりました。



この昭和46年度は、八木山の各エリアの町内会が集まった、

「八木山連合町内会」が結成された年でもあり、

当時の町内会役員の方などは、相当苦労したそうです。



上記に記した八木山の生活の不備に対して、

役所、市長などへの陳情が、公式・非公式も含めて、

だいぶ行われていたようです。




子供が多い地域という事もあり、

当時の町内会は、「子供のため」という目線で、

「安全面」で多くの陳情が行われていた事が分かります。




その中のひとつが、「八木山の時報」というべき「愛の鐘」です。



冬の時期は「4時30分」、夏の時期は「5時」に

八木山小学校から流れるメロディ「愛の鐘」。



当時の子供の遊びと言えば、外遊びです。アウトドアですね。


この「山」という環境で、秘密基地を造ったり、自然と遊ぶという

風景が繰り広げられていたわけです。


時間を忘れて遊ぶのが普通でした。


反面、両親からしてみれば心配であったでしょう。

事故もつきまとうわけですし。


今のように、インドアで「ゲーム」とは違いますね。



こういう面で、子供に帰宅を知らせる「時報」を造る必要性を感じ、

八木山民生児童委員協議会が企画、連合町内会、PTAなども

全面協力し、世帯100円の寄付を募るなどして予算を集め、

総工費50万円で八木山小学校屋上に「愛の鐘」を設置しました。



昭和52年の事です。


一大事業だったことでしょう。



この八木山「愛の鐘」、 「最初の時報」 はクリスマス・イブです。


『1977年(昭和52年)、12月24日・午後4時30分』



八木山に、クリスマスの鐘のように、初めて鳴り響いた「愛の鐘」。



子供の帰り時刻を伝える八木山の時報、それが「愛の鐘」です。




その後、20年近く経って故障が相次ぎ、

しばらく鳴っていない期間もありましたが、

平成12年に八木山小学校が新校舎になる時、

当時と同じように寄付を募るなどして、

新しく設置されました。




初代の音色と、2代目の音色は違いますが、


皆さんの心に「愛の鐘」、残っていますか?





★★★












posted by 八木山取材班 at 06:05| 宮城 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 八木山放送局NET | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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