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1961年・航空写真<国土交通省>
1971年・航空写真<国土交通省>
この2枚の写真。 重ねてみると地形が一致します。
現在、地下鉄東西線工事の付近の空撮写真です。
昭和46年、この一帯は整地が終わり、
早い所では、住宅が建ち並び始めています。
こういう事に「疑問」を持つのは、取材班だけなのかも知れませんが、
地図や航空写真を見ていると、
「なぜ、こういう住宅地の形にしたんだろう?」
と感じる事があります。
地図を見てもお分かりの通り、
八木山一帯は、木々が生い茂る「山そのもの」です。
木々を伐採、整地したのが、今の住宅が建ち並ぶ形です。
ここからは「イメージ」で思い浮かべて下さいね。
道路があって、学校・住宅など「碁盤の目」のように形作られていますが、
「どのようにイメージして、今の形を作ったのでしょう?」
八木山小・中学校をここに配置、公園はここ、道路はこう通して・・など、
専門家などが色々思案して「作られた形」ですが、
「どうして、今のように配置したんだろう」と感じた事はないでしょうか?
例えば、八木山小学校の前の道路・都市計画道路「長町八木山線」。
八木山小学校付近までは「ストレート」で走っている道路、
登ってくると、コンビニのサンクス付近から、
「緩やかですが、カーブ」していますね。
これは、「なぜ曲げたのだろう?」と思った事はないですか?
この道路、ストレートに突き抜けていれば、
現在、地下鉄東西線工事をしている場所の「真っ正面」に
突き抜ける事が出来ます。
ま、地下鉄は「後出しのモノ」ですので、
今考えれば「ストレートにしていた方が都合が良かったんじゃない?」
と思いますが、 当時はそんな疑問はありませんね。
ただ、「なぜ曲げなければならなかったのか。」ということ。
これは、地下鉄工事を行っている向かい側の住宅地は、
「急斜面」になっています。
宅地造成する前の状況では、
相当の「崖に近い状態」だったようです。
「長町八木山線」をストレートに走らせてしまうと、
当然、「道路も急角度」になってしまいます。
道路とするには、あまりにもというほどの角度と、
上を走る「川内旗立線」の高さと一致できなかったようです。
この結果が、今の道路の形を作ったのだと思われます。
そして、もう一点。
この場所は、イマイチ不明なポイントがあります。
動物公園前から「松が丘エリア」に下る、過去に「松が丘1号線」と
呼ばれていた道路です。
下の地図を見て、お分かりになるかと思いますが、
動物公園から下っていくと、グッと左にカーブしますね。
「本町第一公園」の近くで。
松が丘エリアでは、かなり長いストレートになっていることが分かります。
このストレートは、上記航空写真にもあるように、
昔から「あぜ道」的に存在していた道を元に造られた道路です。
「このストレートの道を、何故このポイントで曲げる必要があった?」
という事ですね。
「曲げて本道」としている今の状態は、
何となく「本当にベストですか?」と思えてならないのですが。。
動物公園前の交差点に直結させる事は出来なかった?
とか、
カーブさせずに、ストレートに走らたせ場合、
ガソリンスタンド「シェル石油」さん付近にぶつかりますが、
動物公園の交差点から「距離を離す」ことは無理だった?
などと想像してしまうポイントなんですよね(^_^;)
「あくまで推測」です。
この下記の点は本当ですが、
宅地造成の前まで、「逓信慰霊碑」が八木山野球場付近に
存在していた記録があります。
昭和16年竣工、昭和41年までありました。
逓信とは、仙台逓信局。 現在の、郵政とNTT(当時の電通局)です。
この逓信の殉職者と戦没者を祀るための慰霊碑が、
八木山の地にありました。
慰霊碑は、お墓とは違います。 「忘れないため」です。
戦没者などの「名前」などが記述されています。
なぜ八木山に? というのが謎なんですが、
郵政の関係が根深い八木山エリアとの関係が、
こういう所でも垣間見えます。
この本町1.2丁目エリアの造成は、土地区画整理組合が行っていましたが、
慰霊碑は、当時の逓信局、いわば「国」管理です。
造成が始まった時は、郵政はすでに分祀していたようで、
電通局の管理でしたが、
区画整理組合といえど、
国管理のものをどうにも出来なかったようです。
造成が開始されても慰霊碑は残っていて、
それを避けるように造成が行われていました。
電通局によって「土手内」に移転されたのは「昭和41年」。
移転といっても新しく新造したようで、
当時の慰霊碑は、区画整理組合に一任され「埋設」されています。
地中深くに埋められたということです。
当時、このエリアのレイアウトを創る時には、
この慰霊碑は存在していた訳で、
「松が丘1号線をストレートにせず、カーブさせた」のは、
ひょっとすると「慰霊碑を交わすため」だったのでは??
と推測できます。
慰霊碑は本当ですが、カーブ理由は、あくまで「推測」です。
イメージです。 想像です。
こういう風にですね、「歴史」というのか、想像すると、
「なんで?」ということが次々に出てきます。
皆さんの住む近くにも、「なんで?」は色々転がっていると思います。
興味を持つと、八木山エリアだけ見ても、本当に色々あります。
「逓信慰霊碑」ひとつとっても、そうでしょう。
土手内エリアにそのまま移転せず、古い慰霊碑を地中に埋めたのは、
予算の関係もあったようですが、
何も知らずに掘ったら「慰霊碑が出たぞ」ってのは、どうでしょう(^_^;)
知らなくて良い事もあると思いますが、
「いろいろ興味をもって」ということは大事な事と思います。
「調べる」事をしないで、後で色々言う事も多い世の中ですが、
「まずは自分で興味を持って調べてみる」という事が大事ではないかと♪
これから入学シーズンも到来し、
学生さんなどは引っ越しで「どこに住もう」と思う時期です。
昨年と違い、このサイトも充実してきていますので、
多少ですがお役に立てる事もあるのでは。
調べる一つのツールとして活用して頂いて、
「実際に八木山に興味を持って訪れて、散策してリサーチ」ですよ♪
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2011年02月23日
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昭和39年の状況、大変参考になりますm(_ _)m
動物公園は昭和40年に開園していますが、
この辺りの造成は、その40年から一斉に行われていますね。
ベニーランドは43年開園、この辺りの本町エリアを中心とした
宅地造成の完成・販売を開始、
松が丘1号線を含む近辺道路の本格開通も43年です。
慰霊碑に関しては、写真もありますが、所在地はあえて
記載しませんでしたm(_ _)m
昭和39年ですと、緑ヶ丘・青山・松が丘・・という順に
本町エリアに向かって造成されていた時期ですね。
昭和40年の、動物公園付近の写真を見ると、
ブルドーザーが土を引っ繰り返している真っ最中という
状態だったようです。
遠足に行かれた頃は、「最後に見る昔の八木山動物公園付近」
という状態だったのではないかと思います。
この頃の写真など、誰かお持ちであれば、
ぜひご紹介して頂ければと思います。
コメントありがとうございました。