社説
まずは、東北地方太平洋沖大地震で被災し、
亡くなった方にご冥福をお祈りすると共に、
行方不明者の安否について、無事であることを切に願いたい。
平成23年3月11日 午後2時46分頃。 巨大地震は突然、起こった。
マグニチュード9.0。
宮城県では、昭和53年に起きた「宮城県沖地震」と同様の地震が
起こる可能性は「99%」とされており、住民は意識していた。
いや、していたつもりだった。
しかし、この巨大な地震を誰が予想していたというのだろうか。
取材班は、仙台市街地の真ん中、車の中で地震を体験することになった。
「轟音」という音は、こういう音のことを言うのだろう。
ビル群に囲まれていたことで、そのまま車の中にいた方が安全だったかも
知れないが、取材班は外に出た。
巨大なビル群の建ち並ぶ、花京院スクエア付近の国道45号線上である。
ガラスなどが降ってくる可能性が高かったが、
「見て避けよう」と咄嗟に思ったのだろう。
この行動が正解なのかどうかは、よく分からない。
恐らく間違いだろう。
上を見ると、花京院スクエアがまるでゴム製のように、
左右に揺れているのが見て取れる。
船の上で、嵐に遇っているかのようだった。
しかも、3分近くの長い時間、強くなったり弱くなったりするという、
不思議な地震。
立っているのもやっとだった。
「かなり大きい、巨大な地震」なのは、すぐに分かった。
「宮城県沖地震」だと思った。
しかし、車に搭載していたテレビを見ると、違うようだった。
「震源地は太平洋沖」
この「太平洋沖」は、地震当日の2日前にも大きめに揺れた震源地だった。
「あれは前兆だったか・・」 誰しも感じたのではないだろうか。
「大津波警報発令 津波10メートル・第1波がすでに来襲」
「仙台市 震度6強 宮城県北部 震度7」
とテロップが出ていた。
「何これ・・」
これが現実なのかも分からない。 何が起こっているのか、頭で整理できない。
今後どうなるのかも、考えられない。
今、冷静に考えれば、当時の状態は分かる。
「すべてが体験した事がない」「テレビでも見たことがない数字」だったのだ。
ただ真っ先に頭に出てきた事は、家族の安否。
携帯電話がすぐに繋がらない状態だったが、
1時間以内には安否確認が出来た。
帰宅途中、信号機が点灯していない事に気づき「停電」が分かった。
道路の地割れ等も確認し、
被害の大きさは帰宅途中でジワジワと実感が湧いてきた。
しかも、大粒の雪まで降ってくる始末だった。
帰宅すると、家族の安否は実際に体験出来た。
これが何よりでもあり、「生きているだけで・・」と思う瞬間でもあった。
家の中は見るも無惨な状態だったが、そんなことはどうでも良かった。
「ライフライン全滅」
電気・ガス・水道の欠かせない3つが、全て使えないことが分かる。
時間は夕方6時をまわり、刻々と暗くなる。
そして、どれだけこの3つに頼った生活をしていたことを実感すると同時に、
1995年に起きた「阪神大震災」が、
「少し、他人事のように感じていたのではないか」と、
恥ずかしくなる瞬間でもあった。
これは、今回の大地震の被災で、かなり感じた方は多いのではないだろうか。
「ロウソク1本」に火を付け、うっすら灯った室内を見た時。
「食料の少なさ」を感じた時。
「水が出ない」と体感した時。
特に電気がないという事、どれだけ私たちの生活が「電気に頼っていた」かを、
つくづく実感することになる。
立春を過ぎたとはいえ寒い時期の停電は、「暖房器具」も使えない。
「デジタルが、全く役立たない」
そして
「頼りになったのは、すべてアナログ」
という状態も露呈することになった。
「ラジオ」「石油ストーブ」「カセットコンロ」
「ロウソク」「懐中電灯」「乾電池」・・。
電気を使用出来ないことで、昔ながらのアナログ機器を
所有していなかった被災者にとっては、かなりのダメージが出た。
私たちの当たり前と感じていた「携帯電話」もそうだろう。
携帯電話が充電できないだけで、
「人とつながりが、遮断された」と感じた人は多かったであろう。
「携帯電話に頼った生活」
特に若い方はそうだったのではないか。
そして威力を発揮したのは、
やはり「人と人とのつながり」「地域のつながり」であった。
各自治体・町内会・地元消防団・地域ボランティアの方・・、
八木山エリアで多く活躍していた事を見ていた方、
どれだけいただろうか。
かなり微力ながら、取材班は緑ヶ丘・青山・向山・香澄町などの
各エリアの状態を、実際に現場に行き、
災害本部として機能していた八木山小学校や
八木山市民センター等に、取材も絡めながら情報を集めていた。
右のリンクにもある「恵通薬局」さんでは、
周辺住民のために水が出る地域に出向き水を集め、
「グルグル」さんでは炊き出し、
営業的にといえどコンビニ・スーパーでは店を開け物資の提供、
「You shop あんどう」さんでは、自転車のパンクを直すなど、
『自分たちの生活もある中で、行動している』のだ。
「人とのつながりは、何よりの武器」だ。
1つの力が2つとなり、3つ4つと、無限大の力になる。
後ろを向くな。 前を向いていこう。
乗り越えよう。
一命を取り止めた方々もいる中で、亡くなった方、行方不明の方々も大勢いる。
家族・親戚・恩人・友人など、連絡が取れない状態も多いはずだ。
亡くなった方々の変わりに、生きなくてはならない。
災害の日、新しくこの世に産まれた命もある。
こんな大きさの災害があっても、
今後、絶対に耐えられる日本であるように・・地域であるように。
後世に紡いでいく必要がある。
上を向こう。 がんばろう。
生かされて、今・・生き延びた、被災者たちへ。
震災翌日・12日朝
八木山から見る仙台荒浜方面(撮影・株式会社東北記録映画社)
八木山放送局Net運営管理責任
株式会社東北記録映画社
★★★