2011年06月23日

昔の八木山 「超・貴重写真」 恵和町編

★★★




大変ありがたい事です。


「昔の八木山の写真 探しています」の告知を、

古い写真を紹介しながら行っていますと、

ご連絡を頂く事が出来てきました。


大変ありがとうございます。

本当にありがとうございます。



今回も、告知させて頂きます。


「昔の八木山の写真 探しています。」


(株)東北記録映画社まで、メール・電話等でご連絡頂ければ幸いです。



写真をお預かりしますと、

同時に当サイトでも「完全保存」させて頂きますので、

提供して頂いた観覧者の、「大切な写真をバックアップ保存」する形

にもなります。


今回の震災では、津波で大切な写真を流された方々が多いです。

見方を変えれば、「その土地の、貴重な昔の記録写真」も

失った形にもなっています。


(株)東北記録映画社では、八木山の昔の資料に限っては、

「8oフィルムのテレシネ・DVDコピー」は

無料サービスで行っています。


古い八木山写真に関しても、スキャナーで読み取って

お客様と同時のバックアップ保存させて頂いています。


「ご自宅で何かがあっても、当社でも保存する」ため、

大切な八木山の古い写真は残ります。




さて、今回ご紹介させて頂くのが、「恵和町」です。


今回の震災では、比較的被害が出てしまった地域でもあります。


恵和町は、八木山の宅地造成が昭和30年後期から少しずつ始まり、

「向山〜香澄町・緑町」「緑ヶ丘」がすでに存在していた箇所から、

向山方向より「弥生町」「松波町」「桜木町」の順に進んでいき、

その後に造成された場所が「恵和町」と言われています。



まず、最初の1枚。

この写真は、「かなり貴重」です。

1966年・昭和41年の恵和町からの1カットです。


恵和町69.jpg

<観覧者提供写真>


*2度クリック拡大



恵和町、若葉町、八木山本町1〜2丁目方面が写る、

かなり貴重な写真です。


本町エリア・八木山東・若葉町などが「造成中の初期」「手付かず」の

状態が見て取れます。


「恐竜山」でさえ形が出来ておらず、その名称で呼ぶ事さえ不可能な

状態の時期の、かなり貴重な写真です。


恵和町には「畑」も存在していた事が分かりますね。

左前に写っています。



八木山動物公園が八木山で開園したのが昭和40年10月です。

同じく昭和40年に、この「恵和町を終点」に仙台市営バスが

初運行しています。



町内会名称では、昭和48年に名称が変わるまで、

恵和町町内会は「大塒町内会」と呼ばれていました。



「乱開発」と呼ばれていた頃で、

西の平方面への交通網もままならず、

「希望がある地域」と同時に様々な問題とぶつかり始めた時期では

なかったでしょうか。



恵和町69−1.jpg

<観覧者提供写真>



この写真は、昭和41〜44年頃ではないかと思います。

写真に記載がないため不明とさせて下さい。



「恵和町から金剛沢・西の平方向」のようです。

後ろは「蔵王」のようですね。


写真には写っていませんが、

八木山東にある「どぶ公園」と呼ばれる公園があります。

「芦の口緑地」が正式名称でしょうか。


当時はそのような通り名では呼ばれておらず、

その地域ごとで様々な呼び名があったそうです。


今のようにコンクリートで囲まれているような場所ではなく、

「下水」も含めて混ざっていたような沼の感じだったそうで、

雨が降った後は立ち入る事さえ難しい状態でしたが、

晴れていれば水分がないために「遊び場」と化していたような、

そんな場所だったそうです。



恵和町69−3.jpg

<観覧者提供写真>



顔にモザイクをかけさせて頂きましたが、

撮影時期は、1970年・昭和45年です。


後ろに太白山が見えます。

恵和町からの1カットです。


今の八木山には存在しない、「広大な新地」が印象的ですね。



恵和町70.jpg


IMG_0008.jpg

<観覧者提供写真>




これは、1969年・昭和44年です。


恵和町から本町エリアに向けて撮影されたものです。


コンクリートの建物は「東北工大寮」です。

現在の「みやぎ生協 八木山店」の場所です。


上記の白黒の昭和45年の白黒写真と比べて、

カラーになると、1年古い写真なのにかかわらず、

比較的新しい写真に見えるでしょうか。


工大寮の右後ろ付近に、滑り台のような坂が見えますが、

当時の航空写真と住宅を見る限りでは、

おそらく本町1丁目の市民センターから住宅側に降りた所にある

「階段」ではないかと思います。




恵和町2中心.jpg

<観覧者提供写真>



これは、1970年・昭和45年の写真です。


「恵和町」の中心部付近を撮影したものです。


分かる方には、分かる1カットです。


こういう「引きの写真」は、貴重なんですね。

全体が見えるので、後世に残すには「引き」のアングルが

素晴らしく貴重になるんです。



貴重です、本当に貴重な写真です。


本日も、お酒のお供に、昔話でもどうでしょうか?



ご提供して頂いた一部の写真をご紹介しました。


ご提供写真、大変ありがとうございました。



「八木山 あの頃の昔の写真展」を

八木山市民センターで開催してみたいです。



皆さまからも、ぜひ貴重な「昔の八木山写真」

お待ちしております。





★★★
posted by 八木山取材班 at 06:25| 宮城 ☀| Comment(7) | TrackBack(0) | 太白区八木山界隈 今昔 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
早速写真を使って頂いて有難うございます、とても嬉しいです。
2枚目の写真は芦の口方向ではなく、金剛沢、西の平方向になりますよ〜(^_-)-☆
(遠くに写ってる山は蔵王です)
Posted by 八木山信者 at 2011年06月23日 12:23
ご提供ありがとうございました!

すいません、間違えてしまいましたm(_ _)m

訂正致しました。

写真の方ご返却致しますので、
夕方以降、ご連絡致します。

ありがとうございましたm(_ _)m
Posted by 八木山取材班 at 2011年06月23日 17:25
もう1点修正をお願いします、工大の寮が写っているカラー写真は1969年・昭和44年になります。(写真裏に'69の印しがありました)
宜しくお願いしますm(_ _)m

なお、1枚目の年代不明な超古い写真は、家を購入した年、1966年・昭和41年だそうです、母に確認取りました( ̄^ ̄ゞ
Posted by 八木山信者 at 2011年06月23日 20:39
了解しました! ありがとうございます。

昭和41年ですか!?

やはりかなり貴重な年代の写真ですね!
報道関係・土木関係、動物公園に来た一部の方など、
動物公園界隈の写真は出没しているようですが、
住宅地は珍しいはずです。

ベニーランドでさえ43年開園ですし(^^)/

修正させて頂きます!

Posted by 八木山取材班 at 2011年06月23日 21:07
懐かしいです。子供の頃この近くに住んでましたが、当時は至る所に沼や川が点在してました。まだ私の年代までは貧しい家庭もあったので金がかからない遊びには不自由しなかったなぁ。周りの大人達は知らない人にも気軽に声がけしてたっけ。良い時代でした。
Posted by at 2014年04月20日 14:12
緑ヶ丘三丁目が終点だった長町経由のバスが、昭和40年頃に現在の青山地区まで延長されましたが、
この時の終点は「恵和町」ではなく、「長町恵通苑(現在の青山二丁目)」です。
当時、「大塒(おおとや)」と呼ばれていた現在の恵和町まで延長されたのは昭和45年頃ですね。
延長当時は、緑ヶ丘三丁目〜長町恵通苑間に途中停留所はなく、宅造が進展して、「緑ヶ丘西(緑ヶ丘五丁目)」
が作られ、後に「青葉苑団地前」が作られました。
昭和40年当時の龍沢寺前までの停留所は、
「長町恵通苑」〜「緑ヶ丘三丁目」〜「緑ヶ丘二丁目」(現在の緑ヶ丘郵便局前から長町方向に左折→右折した場所)〜「緑ヶ丘丘一丁目」(現在の緑ヶ丘一丁目から長町方向に左折した場所)
〜緑ヶ丘入口(上下とも橋の緑ヶ丘団地側)でした。
Posted by 八木山土着民 at 2016年09月03日 09:09
情報のご提供、大変ありがとうございます!
大変助かります!
Posted by 八木山取材班 at 2017年06月23日 02:33
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