2012年02月07日

後田川に架かる橋 「金剛沢橋」

★★★




取材班は、歴史にまつわる記事を好んで書いています。

ただ歴史にまつわる事ばかり書いてもつまらないので、

たまにこうやって切り込んでいっています。







八木山南のセブンイレブンから下る道。

皆さんも、今まで数え切れないほど通っていると思います。


IMG_0123.jpg

「紙漉山金剛沢線」


そして、三叉路の交差点から鈎取方面に行く道路があります。

ここから700メートルの市道は、

「紙漉山金剛沢線」といいます。 

「紙漉山」は、「かみすきやま」と読みますが、

付近の「紙漉山遺跡」からは縄文土器・石器が出土しています。


上記写真の場所は、傾斜のある坂道のため、

雪が降った日、

登ることが出来なくなるクルマが多発する場所として有名です。

最近の積雪でも、登ることが出来ない車が多発し、

朝に大渋滞したようです。


そして、この坂道の下ったところにある「橋」を、

皆さんは気にして見たことがあるでしょうか?



IMG_0121.jpg




白いガードレールがある部分、実は「橋」なんです。

しっかり名前も付いています。

「金剛沢橋」 と言います。

長さ14メートル、幅7.4メートルのコンクリート橋です。



IMG_0128.jpg

【後田川】




そして「金剛沢橋」の下を流れているのは、

金剛沢山に源を発している「後田川」です。


後田川は、昔は「金剛沢川」と呼ばれていました。

明治以降に後田川と呼び名が変わっているようです。


この「金剛沢橋」は、昭和37年3月に落成していて、

それまでは7メートルほどの木橋でした。



江戸末期、この道路を八木山南方面に突っ切った先に、

「鉱山」が発見されます。

金剛沢山林の御山守だった高山幸二郎氏が、

山の見回りの際に発見したと言われています。


この場所を試し堀りしたのが、文久2年<1862年>です。

坂本龍馬が生きていた時代ですね。

国の認可が下り本格的に採掘を開始したのが明治31年です。


鉱山から採掘されたのが、「亜炭」や「埋木」です。

八木山エリアの炭鉱で採掘されたのも同様です。


金剛沢鉱山の周辺の「木材」も含めて、

これらを運搬した当初は「馬」でした。


その後、大正12年頃に敷設されたのが「トロッコ」です。

全長約3キロ、西多賀から金剛沢、そして八木山南の三叉路に抜け、

Aコープ前を通過して鉱山入り口まで向かうルートでした。


下りは5分で一気に下りることができ、登りは30分かけて登るという

苦しい労働だったと思いますが、楽しそうな気もします。

幅90センチ、長さ約2メートルのトロッコは、

1日平均4回の往復があったようで、1回の積荷は約1トンだったそう。


取材班の子供の頃、放置されたトロッコを見た記憶もありますが、

実際にこれだったのかは定かではありません。


鉱山の全盛期は、昭和14年〜16年の時期と言われています。

そして、馬〜トロッコと流れた時代は、

ついに「トラックの時代」へ突入します。


IMG_0129.jpg




この金剛沢鉱山までのトラック道路が完成したのが、

「昭和19年」です。

このタイトルにもある、当時の木製橋、

「金剛沢橋」の上を初めてトラックが通過したのも

昭和19年という事になります。


その後、この道路が主流で使用されるようになり、

金剛沢鉱山は昭和40年頃まで続きましたが、

八木山団地や八木山南団地の開発で、

鉱山は自然消滅してしまいました。

鉱山では土砂崩れなどで亡くなった方もおり、

その方々を記してある墓標もあります。



IMG_0121.jpg




八木山と鈎取を結ぶ重要な生活道路も、

いずれ並行して走る「郡山折立線」に変わる日も近いでしょう。


この「金剛沢橋」、金剛沢鉱山がきっかけで造られた木製橋から

スタートした歴史。



橋1つで、色々の歴史を辿ることができますね。





★★★


posted by 八木山取材班 at 00:48| 宮城 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 太白区八木山界隈 今昔 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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