昭和46年に開校した「仙台市立八木山小学校」。
そして昭和48年開校の「八木山中学校」。
この2校には、かなりの人数の卒業生がいます。
しかしながら、
年代によっては「かなり苦労した」卒業生も多いでしょう。
開校したばかりの2つの学校は、
「児童数がパンク状態」に陥り、
八木山小学校では「プレハブ校舎」を増築していた
時期もあります。
2つの学校は、「増築」を繰り返しており、
学校として形になってきたのは昭和50年代中頃。
開校してから約10年は「バタバタの状態」で
当時の児童達は学校生活を送っていたということになります。
昭和60年代に入り児童数が落ち着き、
その後は現在に至るまで「下降線」を辿っていきました。
八木山中学校に関しては、
八木山小学校の他、八木山南小・芦口小・金剛沢小など
からも児童を集めていたため、
「3学年」しかいない状態であっても
教室がまったく足りなかったそうです。

これが、まだ校舎を建設する前の
昭和43年頃の「八木山中学校」の建設予定地です。
左側の平面が「グラウンド」
右側の高くなっている箇所が「校舎」の建設予定場所です。
八木山小学校も同様ですが、
段差にしているのは地盤や元々の地形による関係なのでしょう。
向こう側には「金剛沢」方向が「森だらけ」だった
事が分かります。
この場所で、
これから何人もの卒業生を送り出す事になる訳です。
色々感じることが出来ますね。
今や住宅地も建ち並び、道路も舗装され、
これまで人があまり踏み入れることがなかった場所に、
かなりの人が行き来することになった訳です。

そして、これが「八木山小学校」です。
同じく昭和43年頃と思われます。
「裏山」と呼ばれる場所から校舎へ向けてのアングルです。
今の情景を思い浮かべると、
当時の状況が信じられませんね。
当時は「砂漠のようだった」と例えられることが多いですが、
その通りですね。
現在の面影が、全くないと言って良いです。
八木山小学校も上・下の段差が設けられており、
八木山中学校よりも高さがあります。
これも地形や地盤によるものです。
この写真で興味深いのが「恐竜山が形成されていない」
ということです。
本町2丁目の工事が本格化し始めた頃ですので、
地形が残っていて、恐竜山が形づくられる以前の情景が
見て取れます。
木々が存在していたことも分かりますし、
これから地形を削っていくということも分かります。
貴重な写真ですね。

そして最後に「八木山小学校」の脇にある
「心臓やぶりの坂」という通り名がある地点です。
向こう側には「工大寮」があることも分かります。
昔は「どぶ」にフェンスがかけられていないため、
事故が起こったこともあるそうです。
八木山小学校の校舎が建つ前に、
この「どぶの排水溝」は存在していたということになりますね。
当時の地図を見ると、
現在の「どぶ公園(芦ノ口緑地)」は、
『遊水池』という記載になっていました。
つまりは
「洪水時の河川の流水を、一時的に氾濫させる土地」
という役割の場所でした。
現在は「砂防」という名称になっていますが、
アスファルト舗装されていない、
土や砂利などが広がった、こういう土地ですので、
大雨が降った時に洪水になる確立は高かったでしょう。
金剛沢方面には、今や無い「森」も見えますね。
あれから40年以上。
当時の面影を知っている方からしてみれば、
嬉しいような、悲しいような、
そんな気持ちなのではないでしょうか。
町内会など、この土地を暮らしやすくするために、
努力をして頂いた方々が多くいることを、
忘れてはいけませんね。
★★★