2012年10月25日

八木山本町エリア 「超・貴重写真」 パート2

★★★



昭和46年に開校した「仙台市立八木山小学校」。
そして昭和48年開校の「八木山中学校」。

この2校には、かなりの人数の卒業生がいます。

しかしながら、
年代によっては「かなり苦労した」卒業生も多いでしょう。

開校したばかりの2つの学校は、
「児童数がパンク状態」に陥り、
八木山小学校では「プレハブ校舎」を増築していた
時期もあります。

2つの学校は、「増築」を繰り返しており、
学校として形になってきたのは昭和50年代中頃。

開校してから約10年は「バタバタの状態」で
当時の児童達は学校生活を送っていたということになります。

昭和60年代に入り児童数が落ち着き、
その後は現在に至るまで「下降線」を辿っていきました。

八木山中学校に関しては、
八木山小学校の他、八木山南小・芦口小・金剛沢小など
からも児童を集めていたため、
「3学年」しかいない状態であっても
教室がまったく足りなかったそうです。


IMG_0006.jpg



これが、まだ校舎を建設する前の
昭和43年頃の「八木山中学校」の建設予定地です。

左側の平面が「グラウンド」
右側の高くなっている箇所が「校舎」の建設予定場所です。

八木山小学校も同様ですが、
段差にしているのは地盤や元々の地形による関係なのでしょう。

向こう側には「金剛沢」方向が「森だらけ」だった
事が分かります。


この場所で、
これから何人もの卒業生を送り出す事になる訳です。

色々感じることが出来ますね。

今や住宅地も建ち並び、道路も舗装され、
これまで人があまり踏み入れることがなかった場所に、
かなりの人が行き来することになった訳です。


名称未設定-1.jpg



そして、これが「八木山小学校」です。
同じく昭和43年頃と思われます。

「裏山」と呼ばれる場所から校舎へ向けてのアングルです。

今の情景を思い浮かべると、
当時の状況が信じられませんね。

当時は「砂漠のようだった」と例えられることが多いですが、
その通りですね。
現在の面影が、全くないと言って良いです。

八木山小学校も上・下の段差が設けられており、
八木山中学校よりも高さがあります。

これも地形や地盤によるものです。

この写真で興味深いのが「恐竜山が形成されていない」
ということです。

本町2丁目の工事が本格化し始めた頃ですので、
地形が残っていて、恐竜山が形づくられる以前の情景が
見て取れます。

木々が存在していたことも分かりますし、
これから地形を削っていくということも分かります。
貴重な写真ですね。


IMG_0004.jpg


そして最後に「八木山小学校」の脇にある
「心臓やぶりの坂」という通り名がある地点です。

向こう側には「工大寮」があることも分かります。

昔は「どぶ」にフェンスがかけられていないため、
事故が起こったこともあるそうです。

八木山小学校の校舎が建つ前に、
この「どぶの排水溝」は存在していたということになりますね。

当時の地図を見ると、
現在の「どぶ公園(芦ノ口緑地)」は、
『遊水池』という記載になっていました。

つまりは
「洪水時の河川の流水を、一時的に氾濫させる土地」
という役割の場所でした。

現在は「砂防」という名称になっていますが、
アスファルト舗装されていない、
土や砂利などが広がった、こういう土地ですので、
大雨が降った時に洪水になる確立は高かったでしょう。

金剛沢方面には、今や無い「森」も見えますね。


あれから40年以上。

当時の面影を知っている方からしてみれば、
嬉しいような、悲しいような、
そんな気持ちなのではないでしょうか。

町内会など、この土地を暮らしやすくするために、
努力をして頂いた方々が多くいることを、
忘れてはいけませんね。




★★★
posted by 八木山取材班 at 22:17| 宮城 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 八木山放送局NET | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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