★★★
以前、何度か「国土地理院」のマップを
ご紹介しました。
↑ クリック
以前の記事でもお知らせしましたが、
「航空写真」だけだったものから、
「昔の古地図」も追加されました。
八木山エリア全域で書かれている地図は、
タイトルにもある
1964年と1969年です。
1964年
1969年
1964年といえば、
現在から約50年前です。
先週、古い写真シリーズを特集したので、
描写的な感覚でも、分かりやすいでしょうか。
東京オリンピックの年ですね。
1969年は、昭和44年。
由紀さおりさんの『夜明けのスキャット』が
大ヒットした年でしょうか。
1964年 国土地理院
1969年 国土地理院
↑ 拡大クリック
ほぼ「同サイズ」にしておきましたので、
5年間の変化が分かりやすいのではないかと思います。
八木山緑町・香澄町付近、若葉町・恵和町付近の
宅地開発や発展が、
八木山エリアでは早かったことが、
このマップでは判断できますね。
航空写真では少し分かりにくい部分が、
地図では分かりやすいという一面。
それぞれ色々な見方が出来ると思いますので、
感じてみて下さい。
戦前・八木山エリア付近 航空写真
★★★
2013年09月10日
2013年09月06日
八木山小学校 1972年
★★★
もう、今週は「古い写真シリーズ」
で行ってみましょう(^o^)
以前公開しているので、
焼き付け企画でもありますが・・・(^_^;)
八木山小学校・航空写真 72年
1972年・昭和47年。
八木山小学校・開校から1年後の年。
この年の日本は、
札幌冬季オリンピック、浅間山荘事件などの年です。
戦後第2のベビーブームが始まった年でもあります。
この頃の八木山小学校区は、
写真のような感じで「宅地造成完了から数年」
という頃。
八木山南エリアは、この頃は出来ていません。
上記の広いアングルを見ると、
「右側」「下側」は黒い感じに写っていて、
宅地がピチッと埋まっている感じが分かる反面、
中心側は「空き地がまだまだあります」のため、
白っぽい感じに写っているのが印象的です。
八木山小学校・航空写真 72年
人文字が「右読み」になっているのが、
印象深いですが、
どちらかというと「まだ右読みだった?」とさえ思えます。
上校庭にクルマが4台しか見えないのも、
印象的ですね。
八木山小学校・航空写真 72年
実はこの写真、カラーもあります。
夏に撮影したのではないのでしょう、
プールが「バスクリン色」になっていますね。
体育館もない頃ですし、
今の小学校は「大変充実しているんだ」ということを
今のチビッコにも感じて欲しいですね。
八木山小学校・航空写真 72年
ちょっと寄ってみますと、いろいろ見えますね。
小学校前交差点に、信号機がありません。
さらに歩道橋がありませんね。
小学校のと境目は、フェンスではなく、
「ガードレール」だったようですね。
現在「仙台銀行」の場所は「徳用相互銀行」です。
さらに上の交差点にも、信号機はありませんね。
「八木山ショッピングプラザ」の区画もありません。
この周辺の台所を支えていた
旧・みやぎ生協さんはありますが、
その周辺のお店は、ほとんどありませんね。
カトリック幼稚園さんもあります。
八木山小学校が開校する「昭和46年」に、
ビシッと間に合わせていた証拠ですね。
八木山小学校・航空写真 72年
しかしながら、
あの小学校前の交差点の変化は、大きいですね。
信号無し・歩道橋無し・・の状況で、
横断歩道だけで数年やってきた訳です。
ただ、当時のようにクルマが走っていない・・
という状況だったことも大きいんですね。
今のように、バンバン通っていた頃ではないんですね。
しかし、クルマは走っていないが、
小学校の児童数は「上昇しまくり」の状況のこの時代。
昭和51年に、
児童数 1633名 39学級 という
過去最大を記録しています。
その後に八木山南小などに分散していますが、
ここが児童数としてはピーク地点で、
八木山南小学校などが完成してからは
各学校に分散しています。
この頃は人も多いですので、
各商店などは「儲かっていた」でしょうね(^_^;)
「八木山バブル」という時代の記録写真です。
★★★
もう、今週は「古い写真シリーズ」
で行ってみましょう(^o^)
以前公開しているので、
焼き付け企画でもありますが・・・(^_^;)
八木山小学校・航空写真 72年
1972年・昭和47年。
八木山小学校・開校から1年後の年。
この年の日本は、
札幌冬季オリンピック、浅間山荘事件などの年です。
戦後第2のベビーブームが始まった年でもあります。
この頃の八木山小学校区は、
写真のような感じで「宅地造成完了から数年」
という頃。
八木山南エリアは、この頃は出来ていません。
上記の広いアングルを見ると、
「右側」「下側」は黒い感じに写っていて、
宅地がピチッと埋まっている感じが分かる反面、
中心側は「空き地がまだまだあります」のため、
白っぽい感じに写っているのが印象的です。
八木山小学校・航空写真 72年
人文字が「右読み」になっているのが、
印象深いですが、
どちらかというと「まだ右読みだった?」とさえ思えます。
上校庭にクルマが4台しか見えないのも、
印象的ですね。
八木山小学校・航空写真 72年
実はこの写真、カラーもあります。
夏に撮影したのではないのでしょう、
プールが「バスクリン色」になっていますね。
体育館もない頃ですし、
今の小学校は「大変充実しているんだ」ということを
今のチビッコにも感じて欲しいですね。
八木山小学校・航空写真 72年
ちょっと寄ってみますと、いろいろ見えますね。
小学校前交差点に、信号機がありません。
さらに歩道橋がありませんね。
小学校のと境目は、フェンスではなく、
「ガードレール」だったようですね。
現在「仙台銀行」の場所は「徳用相互銀行」です。
さらに上の交差点にも、信号機はありませんね。
「八木山ショッピングプラザ」の区画もありません。
この周辺の台所を支えていた
旧・みやぎ生協さんはありますが、
その周辺のお店は、ほとんどありませんね。
カトリック幼稚園さんもあります。
八木山小学校が開校する「昭和46年」に、
ビシッと間に合わせていた証拠ですね。
八木山小学校・航空写真 72年
しかしながら、
あの小学校前の交差点の変化は、大きいですね。
信号無し・歩道橋無し・・の状況で、
横断歩道だけで数年やってきた訳です。
ただ、当時のようにクルマが走っていない・・
という状況だったことも大きいんですね。
今のように、バンバン通っていた頃ではないんですね。
しかし、クルマは走っていないが、
小学校の児童数は「上昇しまくり」の状況のこの時代。
昭和51年に、
児童数 1633名 39学級 という
過去最大を記録しています。
その後に八木山南小などに分散していますが、
ここが児童数としてはピーク地点で、
八木山南小学校などが完成してからは
各学校に分散しています。
この頃は人も多いですので、
各商店などは「儲かっていた」でしょうね(^_^;)
「八木山バブル」という時代の記録写真です。
★★★
2013年09月03日
八木山エリア 最古貴重写真 その2
★★★
グズグズの天気が続いています仙台市です。
埼玉・千葉では竜巻被害があり、
異常気象的な日本になっていますね。
ただ「私たちの記憶から薄れている」事も多く、
竜巻も震災も津波も、
自然災害というものは過去も起きています。
東日本大震災の大津波も「1000年に1度」
と言われ、大半の人が「知らないで生きてきた」
経緯もあり、当初は「過去にない災害」とさえ
思っていた方も多いでしょう。
「風化」という言葉は、
悪いようなイメージもありますが、
人によっては「風化した方がよい」場合もあります。
先日、被災地の沿岸沿いで本業があった際、
小さい子供たち数人が、
「津波、こわい」 という言葉を出していたのを
耳にしました。
震災以来なのか「海を見たことによって感じてしまった」
のでしょう。
おそらくこのまま大人になっても、
「トラウマ」として残り、「海は怖い」「行きたくない」
というものを感じ、思いながら成長してしまうのだと思います。
その時、親である大人たちが、
「海を見せないで成長させる」のか「克服させていくのか」
で、今後の将来に大きく影響してくるのでしょう。
さて先日の続きです。
以前ご紹介したことがある
「野草園」から撮影された「1963年・昭和38年」
のご提供写真です。
現在ではこのアングルから撮影できませんが、
大年寺山にある仙台放送さんの社屋からですと、
似たようなアングルで撮影できるかも知れない1枚です。
東北放送方向を写しています。
この写真、あえて白黒にしてみました。
「古く見える」イメージがあるでしょうか。
実は原本は「カラー」です。
これです。
「イメージ」というものは恐ろしいモノで、
カラーになると「10年くらい前?」などと
感じてしまうほど錯覚してしまいます。
八木山エリア付近の当サイトが掲載させて頂いた
住宅エリア付近では「最古記録写真」が、
この写真になります。
「1963年・昭和38年 9月24日」です。
あと数週間で「50年前」という事になります。
今では、住宅地だらけになっていますね。
この時期に「カラーで残る写真」は貴重です。
東京オリンピックの前の年です。
カラー写真は「1970年代に普及」していて、
今や少なくなった「カラー現像所の写真屋さん」が
登場したのは「65年頃から」です。
1963年10月に、
フジカラーN64 という一般用フィルム
「35mm判・12枚撮および20枚撮り」
が発売されていますので、
この写真は
「カラーで残る貴重な八木山写真」になるかと思います。
なにせ1965年・昭和40年頃で、
カラー写真の普及率は10%前後と言われていましたので・・。
これも以前ご紹介したことがありますが、
東亜タクシーさん付近からの写真。
1967年11月に撮影された1枚です。
上記でご説明した通り、
「この時期は白黒が普通」の頃です。
上記に野草園写真よりも古く見えてしまいますね・・。
この付近での当サイト掲載では、
「最古写真」になります。
この辺りの住宅地に住む方には、
もっと昔の写真があるかも知れませんね(^_^;)
左側の三角形の部分がありますが、
「北二ツ沢」と「南二ツ沢」を分けていた尾根筋の残り
だそうです。
この辺りには「沢」があり、
さらには三角の山のようになっている高さも見る限り、
このような立地を造成していた証拠写真でもありますね。
寄ってみますと、現在地下鉄工事をしている
八木山本町エリアまで見えていることがすごいですね。
現在では住宅地が満載になっていることもあり、
絶対に見ることの出来ない写真です。
このような貴重写真、
今後もビシッとお待ちしております。
宜しくお願いしますm(_ _)m
★★★
グズグズの天気が続いています仙台市です。
埼玉・千葉では竜巻被害があり、
異常気象的な日本になっていますね。
ただ「私たちの記憶から薄れている」事も多く、
竜巻も震災も津波も、
自然災害というものは過去も起きています。
東日本大震災の大津波も「1000年に1度」
と言われ、大半の人が「知らないで生きてきた」
経緯もあり、当初は「過去にない災害」とさえ
思っていた方も多いでしょう。
「風化」という言葉は、
悪いようなイメージもありますが、
人によっては「風化した方がよい」場合もあります。
先日、被災地の沿岸沿いで本業があった際、
小さい子供たち数人が、
「津波、こわい」 という言葉を出していたのを
耳にしました。
震災以来なのか「海を見たことによって感じてしまった」
のでしょう。
おそらくこのまま大人になっても、
「トラウマ」として残り、「海は怖い」「行きたくない」
というものを感じ、思いながら成長してしまうのだと思います。
その時、親である大人たちが、
「海を見せないで成長させる」のか「克服させていくのか」
で、今後の将来に大きく影響してくるのでしょう。
さて先日の続きです。
以前ご紹介したことがある
「野草園」から撮影された「1963年・昭和38年」
のご提供写真です。
現在ではこのアングルから撮影できませんが、
大年寺山にある仙台放送さんの社屋からですと、
似たようなアングルで撮影できるかも知れない1枚です。
東北放送方向を写しています。
この写真、あえて白黒にしてみました。
「古く見える」イメージがあるでしょうか。
実は原本は「カラー」です。
これです。
「イメージ」というものは恐ろしいモノで、
カラーになると「10年くらい前?」などと
感じてしまうほど錯覚してしまいます。
八木山エリア付近の当サイトが掲載させて頂いた
住宅エリア付近では「最古記録写真」が、
この写真になります。
「1963年・昭和38年 9月24日」です。
あと数週間で「50年前」という事になります。
今では、住宅地だらけになっていますね。
この時期に「カラーで残る写真」は貴重です。
東京オリンピックの前の年です。
カラー写真は「1970年代に普及」していて、
今や少なくなった「カラー現像所の写真屋さん」が
登場したのは「65年頃から」です。
1963年10月に、
フジカラーN64 という一般用フィルム
「35mm判・12枚撮および20枚撮り」
が発売されていますので、
この写真は
「カラーで残る貴重な八木山写真」になるかと思います。
なにせ1965年・昭和40年頃で、
カラー写真の普及率は10%前後と言われていましたので・・。
これも以前ご紹介したことがありますが、
東亜タクシーさん付近からの写真。
1967年11月に撮影された1枚です。
上記でご説明した通り、
「この時期は白黒が普通」の頃です。
上記に野草園写真よりも古く見えてしまいますね・・。
この付近での当サイト掲載では、
「最古写真」になります。
この辺りの住宅地に住む方には、
もっと昔の写真があるかも知れませんね(^_^;)
左側の三角形の部分がありますが、
「北二ツ沢」と「南二ツ沢」を分けていた尾根筋の残り
だそうです。
この辺りには「沢」があり、
さらには三角の山のようになっている高さも見る限り、
このような立地を造成していた証拠写真でもありますね。
寄ってみますと、現在地下鉄工事をしている
八木山本町エリアまで見えていることがすごいですね。
現在では住宅地が満載になっていることもあり、
絶対に見ることの出来ない写真です。
このような貴重写真、
今後もビシッとお待ちしております。
宜しくお願いしますm(_ _)m
★★★
2013年09月02日
八木山本町エリア 貴重写真の最古記録は?
★★★
9月になりましたね。
グズグズの天気になりましたが、
体調管理にはお気を付け下さいね。
さて、先月から微妙にサイトを整理していた時に、
これまで提供させて頂いた「貴重写真」を
パソコン用・右のカテゴリーにまとめました。
サイトを運営して3年半が経過しましたが、
その中で「エリア」にしぼってみました。
そこで、
当サイトで紹介した八木山エリアの最古記録は・・?
というものが気になってしまいました。
地下鉄東西線が開業する側近エリアである
「八木山本町エリア」。
このエリアは、昭和40年代に開発されているので
「八木山エリアの中では後半の開発地」にあたります。
そこで、当サイト紹介で一番古いデータが、
「八木山ベニーランドさんの航空写真」でした。
ベニーさんが開園したのは、1968年4月です。
この航空写真は「工事の真っ最中」ですので、
推定ですが「1966〜67年頃」です。
やはりというべきか、
企業さんなどは「記録をお持ち」ですね。
そして一般の方から提供頂いた
「本町エリアが写り込む陸上写真」が
恵和町からの1枚です。
「1966年」です。
当サイトで紹介した「最古」になります。
恵和町は、八木山本町や松が丘エリアなどが
開拓される以前に完了しています。
昭和30年代中盤に動いています。
さらに1年遅れ「1967年1月」の
「本町エリアの現場」で撮影された最古写真」が
これです。
工事されていた頃の現場写真が
残っているということは貴重ですね。
となると・・・、
昭和20年代後期から動いていた他の地域にも、
「残っている」ということになりますよね(^_^;)
ベニーさん提供の写真には、
東北工業大学さんが写っています。
開校は「1964年」 です。
東北放送さんが社屋を八木山に構えたのが、
1963年(昭和38年)です。
さらに、「八木山の最初の住宅地」である
八木山緑町付近、
香澄町エリアが加速していった「昭和20年代後期」。
どこかに残っているかも知れませんね。
こちらの地域に、
もっと営業が必要な当サイトということでしょうか(^_^;)
ご提供した頂いたベニーランド様含め、
個人の方々には大変感謝しております。
引き続き、貴重写真のご提供、
観覧して頂いているみなさま、お待ちしておりますm(_ _)m
★★★
9月になりましたね。
グズグズの天気になりましたが、
体調管理にはお気を付け下さいね。
さて、先月から微妙にサイトを整理していた時に、
これまで提供させて頂いた「貴重写真」を
パソコン用・右のカテゴリーにまとめました。
サイトを運営して3年半が経過しましたが、
その中で「エリア」にしぼってみました。
そこで、
当サイトで紹介した八木山エリアの最古記録は・・?
というものが気になってしまいました。
地下鉄東西線が開業する側近エリアである
「八木山本町エリア」。
このエリアは、昭和40年代に開発されているので
「八木山エリアの中では後半の開発地」にあたります。
そこで、当サイト紹介で一番古いデータが、
「八木山ベニーランドさんの航空写真」でした。
ベニーさんが開園したのは、1968年4月です。
この航空写真は「工事の真っ最中」ですので、
推定ですが「1966〜67年頃」です。
やはりというべきか、
企業さんなどは「記録をお持ち」ですね。
そして一般の方から提供頂いた
「本町エリアが写り込む陸上写真」が
恵和町からの1枚です。
「1966年」です。
当サイトで紹介した「最古」になります。
恵和町は、八木山本町や松が丘エリアなどが
開拓される以前に完了しています。
昭和30年代中盤に動いています。
さらに1年遅れ「1967年1月」の
「本町エリアの現場」で撮影された最古写真」が
これです。
工事されていた頃の現場写真が
残っているということは貴重ですね。
となると・・・、
昭和20年代後期から動いていた他の地域にも、
「残っている」ということになりますよね(^_^;)
ベニーさん提供の写真には、
東北工業大学さんが写っています。
開校は「1964年」 です。
東北放送さんが社屋を八木山に構えたのが、
1963年(昭和38年)です。
さらに、「八木山の最初の住宅地」である
八木山緑町付近、
香澄町エリアが加速していった「昭和20年代後期」。
どこかに残っているかも知れませんね。
こちらの地域に、
もっと営業が必要な当サイトということでしょうか(^_^;)
ご提供した頂いたベニーランド様含め、
個人の方々には大変感謝しております。
引き続き、貴重写真のご提供、
観覧して頂いているみなさま、お待ちしておりますm(_ _)m
★★★
2012年11月15日
八木山に「昔あったもの」「今はないもの」
★★★
昭和42〜43年頃
以前ご紹介した、現在の恐竜山付近からのアングル。
当サイトでも、かなりの数の八木山エリア超貴重写真を
ご紹介しました。
現在でもドシドシ募集中ですm(_ _)m
数々の写真を提供して頂いている中で、
一番多いのが「昭和40年代初め〜中盤」にかけてです。
そして「ほぼゼロ」という年代が、
八木山が宅地開拓をされる以前の年代です。
皆さんもご存じの通り、
八木山の昔を辿ると「山」です。
現在の動物公園界隈は、
「八木山球場」「遊園地」がありましたので、
そのエリアの写真は残っていますが、
それ以外の写真は「表に出ていない」現状があります。
何故かと考えると、理由は明らかですね。
他のエリアは「ただの山」「森林」という訳なので、
そこで写真を撮影する人は、皆無に近いはずです。
昭和初期に宅地があった、
「八木山緑町」の界隈では残っているでしょう。
しかしそれ以外は「リアルに森林」なので、
もし残っていたとしても、
「どこの森なのか、全くわかない」「証拠がない」
という現実もあるでしょう。
しかも、現像代も今と比べれば「高い」いはずです。
現在普及している「デジカメ」と違い、フィルムなので
「勿体ない」という気持ちだって出てくるはずで、
その時代で「森林を撮影する」ということは、
あまり無いことでしょう。
そこでこれは貴重だな・・と思うのが、
今年初めにも紹介した「八木山野球場案内図」です。
「八木山野球場案内図」 推定・昭和4年頃
手書き地図ですが、
当時の状況が把握できる貴重な資料です。
赤く囲い、青いラインを付加しましたが、
「芦の口沢」「西二ッ沢」「東二ッ沢」の3つが、
現在は存在していません。
宅地開発等で埋め立てられてしまっています。
「芦の口沢」が本町2丁目、
「西二ッ沢」が本町1丁目・松が丘
「東二ッ沢」が本町1丁目・桜木町・長嶺
などを流れていました。
「東二ッ沢」は、現在も名残があります。
そして、現在では「龍」の文字を書くことがないですが、
「龍の口沢」と書かれています。
ただ「辰ノ口」という名前も使用されているようです。
遊歩道にこの文字が使われています。
ひらがなとカタカナ、辰と龍、
この使い方の違いはどうなっていたのだろうと、
ちょっと興味がありますね。
現在の「八木山橋ルート」が『予定』と記載されているので、
恐らく八木山橋が完成する前の
昭和4〜8年頃の地図ではないかと推測できます。
八木山野球場案内図
そして、平成初めくらいまで普通に通れた、
今は「危険ルート」にもなっている
東北放送からの「竜ノ口渓谷」への「裏ルート」。
この道は、「マップにも掲載される」という
「辰ノ口遊歩道」として機能していたようです。
マップを見る限りでは、
「太線」ではなく「点線」になっていることから、
当時から私たちが知っている「細い道」であったのであろう
と想像できます。
この道沿いには「練兵場」という文字があり、
ここは「追廻住宅」奥のエリアのようです。
そして、今は住宅地になっており、
現在でも「裏道」としても機能している
「香澄町〜鹿落坂」付近に出るルートは、
当時は「遊歩道」のような道としてショートカット出来ていた
ようです。
ただ「かなりキッツイ傾斜の道」であろうと想像できます。
「天守台」ルートも、
現在は崩落して通行止めになっているルートは存在せず、
天守台の中を突っ切るようなルートになっています。
昭和43年頃・本町1丁目・マルエイ酒店付近
約90年近く前の「八木山マップ」ですが、
宅地開拓された昭和40年頃にこの地図を見たとすれば、
40年前のマップいうことになります。
昭和40年頃といえば、
現在から数えると約45年前です。
大半が「山」だった八木山エリア。
この時代の写真が残っていると
「スーパー貴重写真」ということになります。
しかし、八木山球場エリア以外は、
中々難しいでしょう。
途中に「戦争時代」もありましたので。
そして、もし「八木久兵衛氏」が造った八木山野球場や
遊園地が無かったら、
このようなマップも存在していないことになります。
いろいろな面で見ても、
「八木久兵衛氏」の功績は凄いですね。
★★★
昭和42〜43年頃
以前ご紹介した、現在の恐竜山付近からのアングル。
当サイトでも、かなりの数の八木山エリア超貴重写真を
ご紹介しました。
現在でもドシドシ募集中ですm(_ _)m
数々の写真を提供して頂いている中で、
一番多いのが「昭和40年代初め〜中盤」にかけてです。
そして「ほぼゼロ」という年代が、
八木山が宅地開拓をされる以前の年代です。
皆さんもご存じの通り、
八木山の昔を辿ると「山」です。
現在の動物公園界隈は、
「八木山球場」「遊園地」がありましたので、
そのエリアの写真は残っていますが、
それ以外の写真は「表に出ていない」現状があります。
何故かと考えると、理由は明らかですね。
他のエリアは「ただの山」「森林」という訳なので、
そこで写真を撮影する人は、皆無に近いはずです。
昭和初期に宅地があった、
「八木山緑町」の界隈では残っているでしょう。
しかしそれ以外は「リアルに森林」なので、
もし残っていたとしても、
「どこの森なのか、全くわかない」「証拠がない」
という現実もあるでしょう。
しかも、現像代も今と比べれば「高い」いはずです。
現在普及している「デジカメ」と違い、フィルムなので
「勿体ない」という気持ちだって出てくるはずで、
その時代で「森林を撮影する」ということは、
あまり無いことでしょう。
そこでこれは貴重だな・・と思うのが、
今年初めにも紹介した「八木山野球場案内図」です。
「八木山野球場案内図」 推定・昭和4年頃
手書き地図ですが、
当時の状況が把握できる貴重な資料です。
赤く囲い、青いラインを付加しましたが、
「芦の口沢」「西二ッ沢」「東二ッ沢」の3つが、
現在は存在していません。
宅地開発等で埋め立てられてしまっています。
「芦の口沢」が本町2丁目、
「西二ッ沢」が本町1丁目・松が丘
「東二ッ沢」が本町1丁目・桜木町・長嶺
などを流れていました。
「東二ッ沢」は、現在も名残があります。
そして、現在では「龍」の文字を書くことがないですが、
「龍の口沢」と書かれています。
ただ「辰ノ口」という名前も使用されているようです。
遊歩道にこの文字が使われています。
ひらがなとカタカナ、辰と龍、
この使い方の違いはどうなっていたのだろうと、
ちょっと興味がありますね。
現在の「八木山橋ルート」が『予定』と記載されているので、
恐らく八木山橋が完成する前の
昭和4〜8年頃の地図ではないかと推測できます。
八木山野球場案内図
そして、平成初めくらいまで普通に通れた、
今は「危険ルート」にもなっている
東北放送からの「竜ノ口渓谷」への「裏ルート」。
この道は、「マップにも掲載される」という
「辰ノ口遊歩道」として機能していたようです。
マップを見る限りでは、
「太線」ではなく「点線」になっていることから、
当時から私たちが知っている「細い道」であったのであろう
と想像できます。
この道沿いには「練兵場」という文字があり、
ここは「追廻住宅」奥のエリアのようです。
そして、今は住宅地になっており、
現在でも「裏道」としても機能している
「香澄町〜鹿落坂」付近に出るルートは、
当時は「遊歩道」のような道としてショートカット出来ていた
ようです。
ただ「かなりキッツイ傾斜の道」であろうと想像できます。
「天守台」ルートも、
現在は崩落して通行止めになっているルートは存在せず、
天守台の中を突っ切るようなルートになっています。
昭和43年頃・本町1丁目・マルエイ酒店付近
約90年近く前の「八木山マップ」ですが、
宅地開拓された昭和40年頃にこの地図を見たとすれば、
40年前のマップいうことになります。
昭和40年頃といえば、
現在から数えると約45年前です。
大半が「山」だった八木山エリア。
この時代の写真が残っていると
「スーパー貴重写真」ということになります。
しかし、八木山球場エリア以外は、
中々難しいでしょう。
途中に「戦争時代」もありましたので。
そして、もし「八木久兵衛氏」が造った八木山野球場や
遊園地が無かったら、
このようなマップも存在していないことになります。
いろいろな面で見ても、
「八木久兵衛氏」の功績は凄いですね。
★★★