★★★
「八木山エリア」。
その中の八木山動物公園、八木山ベニーランドの向かい側。
「八木山本町1丁目」「八木山本町2丁目」のエリア。
動物公園・ベニーランドを含めると、
およそ100万uの区域になっています。
八木山エリアの宅地開発の中では「後半」に造成されており、
昭和40年代に入ってからになります。
現状でのラストの宅地造成は「八木山南エリア」になります。
「八木山本町1丁目」「八木山本町2丁目」は、
『仙台市 八木山土地区画整理組合』が主導していて、
施工は「鹿島建設」「野呂建設」さんで行われました。
ここで、1冊の資料をご紹介します。
この土地に住む取材班が、大切に保管して頂いていました。
記録や資料は、「宝」ですね。
上記で「本町1」「本町2」の宅地開発は「後半」と
記載しましたが、
さらに順をつけると「本町1」が先行して行われました。
2丁目は、所有権等の諸事情が絡んでいたため、
少し遅れました。
写真は、当時はまだ形になっていなかった「恐竜山」から
TBC東北放送方面を写した写真です。
撮影時期は「昭和42〜43年頃」と思われます。
本町2丁目の区画(手前)が、
まだ手付かずであることが分かります。
「元々の地形」が分かる箇所もあります。
八木山小学校・中学校の建設予定地が分かります。
まだ建設されていません。
震災前になりますが、
現在の「八木山小学校通り」の写真です。
これが43年頃にはどうだったのでしょう。
以前あった、コンビニ「サンクス」さん付近から、
登り方面を撮影したアングルです。
当時は「砂利道」だったことが分かるでしょうか。
右にあるのは、恐らく道路標識と思われますが、
かなり低い位置にありますね。
電信柱は、少しだけ存在していますね。
まだ家が多くないためです。
そして、地下鉄東西線工事で、現在はガラッと変わった
ファミレス「COCO’S」さん付近。
動物公園駐車場の入り口が機能していた頃。
この風景は、まだ見覚えがある方も多いですよね。
ここの昭和43年頃の写真です。
何か・・気づくことがありますよね。
当時は、「3車線」しかなかったんですね。
取材班も初めて知りました。
この当時、まだ本町2丁目方向・フレッシュフード・アダチさん
のある交差点付近は「工事中」で、
写真のように舗装されていなかった時期です。
この道幅を、
どうやって今の「4車線」にしたのか不明です。。
拡幅して広げたのでしょうか・・。
それとも、ただ車線を増やしたのでしょうか・・。
比べてみると、車線を増やしただけのような気がします。
当時も、道路が傾斜していますね。
この傾斜地点で、現在「工事」を行っていますので、
ある意味では約45年ぶりに工事を行っているという
ことなんですね。
以前、別の取材班が所有・提供して頂いた写真を
紹介しましたが、
ほぼ同時期の頃の「COCO’S」さん付近です。
昭和43年と記録されています。
昭和の八木山エリアと、平成の八木山エリア。
この頃の八木山エリアを知っている世代と、知らない世代。
昨日記事にした緑ヶ丘エリアと同様に、
昨年の震災での「地滑り被害」が、
この本町エリアでも起きており、
公共事業として一部区画で対策工事が入ることに
なっています。
歴史を辿ると、いろいろと分かることも多いですが、
特に震災を堺に、
興味を持って昔を調べる若い方も多いそうですね。
それと同時に、地域に興味を持って頂ければ、
八木山エリアも上手に後世に残すことが出来ると思います。
歴史の上に、私たちは住んでいます。
★★★
2012年10月24日
2012年07月13日
八木山橋 あの頃
★★★
昭和6年、
軍用道路の吊り橋として開通した「八木山橋」。
八木山エリア付近に住む住人にとっては、
必要不可欠な「橋」です。
(株)東北記録映画社 貯蔵
当初は、「吊り橋」です。
長さ106.7メートル。
幅3.7メートルでした。
取材班は当時の橋を通ったことがありませんが、
「ゆらゆら揺れる吊り橋」だったそうです。
橋の隙間からは、
竜ノ口渓谷が見えるという恐ろしさだったと。
取材班K 提供
当時は一種の「観光スポット」でもあった訳ですね。
そして現在のコンクリート橋の八木山橋は、
昭和40年4月に完成しました。
全長177メートル、幅8.5メートル。
当時の吊り橋から比べると、
全長が70メートル伸び、幅5メートル広くなっています。
八木山ベニーランド貯蔵 昭和48年当時
「三輪以上 8時〜18時 駐車禁止」の標識が、
特に印象的です。
現在でも「八木山橋」のバス停もあることから、
「観光地」として機能していたことが分かります。
八木山橋に駐車して、風景や下を眺めるといった方々が
多くいたことを意味しています。
いつから、変わってしまったのでしょう。
建設当時の八木山橋は、
防護柵は高く設置されていませんでした。
ご存じの通り、自殺の名所としても広まっており、
現在でも騒ぎがあるほどです。
ヘリが飛んだり、消防車が出場したりと、
年に1度はあります。
観光地としても機能している、
そして住宅地としての「八木山エリア」としても、
結構厄介な問題です。
何とかしないといけませんよね。
現在はネット社会でもあるので、
昔と比べ、デマも含めて情報も早いです。
八木山ベニーランド貯蔵 昭和48年当時
昨年の震災で、ダメージが出た同じ付近を、
昭和48年当時、ビシッと工事している状況が見て取れます。
宮城県沖地震でも、
橋脚付近に軽くダメージが出ましたが、
通行止めなどの処置、交通規制が敷かれると、
かなり不便になるのが、この八木山橋でしょう。
八木山ベニーランド貯蔵 昭和48年当時
橋を渡って、八木山方向の道、
現在とだいぶ違うことが分かるでしょうか?
「どこの山に向かうのサ?」
という感じの道に見えますね。
道路上の景観・・大事ですね。
こんなに違うんです。
「道の景観」は変われど、
40年以上、変わっていない八木山橋ルート。
観光シーズンなどでキャパをオーバーすると、
すぐ渋滞してしまう特徴も、現在でもあります。
朝の渋滞は、昔ほどではなくなりましたが、
よくぞ40年以上も、同じ状態を続けられたものです。
新しい道、必要だと思うのですが、
地下鉄東西線が開通した後、
もしくは「パンダ」が本当に来るのなら、
都市計画道路を本当に20年近く放置したままに
するのでしょうか。
お金はかかるでしょうけど、昭和50年近くからずっと、
八木山の町内会から陳情書が出ていたんですから、
何とかならないものでしょうか・・。
必要じゃないと思うものが造られ、
必要と思うものが造られないこと。
これは、誰が決めているのでしょうか?
★★★
昭和6年、
軍用道路の吊り橋として開通した「八木山橋」。
八木山エリア付近に住む住人にとっては、
必要不可欠な「橋」です。
(株)東北記録映画社 貯蔵
当初は、「吊り橋」です。
長さ106.7メートル。
幅3.7メートルでした。
取材班は当時の橋を通ったことがありませんが、
「ゆらゆら揺れる吊り橋」だったそうです。
橋の隙間からは、
竜ノ口渓谷が見えるという恐ろしさだったと。
取材班K 提供
当時は一種の「観光スポット」でもあった訳ですね。
そして現在のコンクリート橋の八木山橋は、
昭和40年4月に完成しました。
全長177メートル、幅8.5メートル。
当時の吊り橋から比べると、
全長が70メートル伸び、幅5メートル広くなっています。
八木山ベニーランド貯蔵 昭和48年当時
「三輪以上 8時〜18時 駐車禁止」の標識が、
特に印象的です。
現在でも「八木山橋」のバス停もあることから、
「観光地」として機能していたことが分かります。
八木山橋に駐車して、風景や下を眺めるといった方々が
多くいたことを意味しています。
いつから、変わってしまったのでしょう。
建設当時の八木山橋は、
防護柵は高く設置されていませんでした。
ご存じの通り、自殺の名所としても広まっており、
現在でも騒ぎがあるほどです。
ヘリが飛んだり、消防車が出場したりと、
年に1度はあります。
観光地としても機能している、
そして住宅地としての「八木山エリア」としても、
結構厄介な問題です。
何とかしないといけませんよね。
現在はネット社会でもあるので、
昔と比べ、デマも含めて情報も早いです。
八木山ベニーランド貯蔵 昭和48年当時
昨年の震災で、ダメージが出た同じ付近を、
昭和48年当時、ビシッと工事している状況が見て取れます。
宮城県沖地震でも、
橋脚付近に軽くダメージが出ましたが、
通行止めなどの処置、交通規制が敷かれると、
かなり不便になるのが、この八木山橋でしょう。
八木山ベニーランド貯蔵 昭和48年当時
橋を渡って、八木山方向の道、
現在とだいぶ違うことが分かるでしょうか?
「どこの山に向かうのサ?」
という感じの道に見えますね。
道路上の景観・・大事ですね。
こんなに違うんです。
「道の景観」は変われど、
40年以上、変わっていない八木山橋ルート。
観光シーズンなどでキャパをオーバーすると、
すぐ渋滞してしまう特徴も、現在でもあります。
朝の渋滞は、昔ほどではなくなりましたが、
よくぞ40年以上も、同じ状態を続けられたものです。
新しい道、必要だと思うのですが、
地下鉄東西線が開通した後、
もしくは「パンダ」が本当に来るのなら、
都市計画道路を本当に20年近く放置したままに
するのでしょうか。
お金はかかるでしょうけど、昭和50年近くからずっと、
八木山の町内会から陳情書が出ていたんですから、
何とかならないものでしょうか・・。
必要じゃないと思うものが造られ、
必要と思うものが造られないこと。
これは、誰が決めているのでしょうか?
★★★
2012年07月12日
八木山ベニーランド付近にあったもの
★★★
昭和43年4月14日、
東北地方で初めての総合遊園地として開園したのが
「八木山ベニーランド」です。
現在では、春になると桜が咲き乱れ、
ビシッとした情景が広がっていますが、
開園当初は、現在とは全く違う風景でした。
乗り物も、今とは種類が異なっており、
物価の関係で「乗り物価格も激安」です。
コーヒーカップ「20円」、
ジェットコースター「60円」、
ゴーカート「1人乗り40円」、
ゲームコーナー「10円」・・
となっています。
昨年の震災でダメージが出たため、
残念ながら無くなってしまった「荒野の野砲」。
これは開園当初からあり、40円でした。
−八木山ベニーランド貯蔵−
開園前の、工事をしていた頃の貴重写真です。
昭和41〜42年頃でしょうか。
そして今回注目したいのが、
右上にある「建物」です。
−八木山ベニーランド貯蔵−
交差点の角にあるのが、
八木山エリアの地元出身で知る人ぞ知る、
レストラン「アンデルセン」さんです。
正確に記憶していませんが、
建物が無くなってから20年近くが経つでしょうか。
そして左隣にある建物が、
「ガソリンスタンド・エッソ」さんです。
当時「エッソ・サービス」と看板も出ていました。
ベニーランドが開園する前からあったんですね。
ベニーランド前にあった「エッソ」の名前は、
「エッソ石油 エイトリー八木山SS」でした。
お分かりかと思いますが、
運営は八木山ベニーランドの会社でもある
(株)エイトリーさんです。
この八木山SSがいつ頃まであったのか、
この記事を書く時に事前に調べたのですが、
正確な時期が把握できませんでした。
推定ですが、
撤退して10年経っているかな・・くらいです。
同じ八木山内・八木山緑町エリアにも
「エッソ緑町SS」がありましたね。
ここも現在はなく、3年ほど前に無くなりました。
確か、ガソリンが急騰していた時期だったはずです。
経営は、2つのエッソとも、
(株)エイトリーさんです。
−取材班K 提供写真 −
別のご提供写真でも、
「アンデルセン」さん「エッソ」さんが、写り込んでいます。
この写真は昭和42年11月撮影です。
本町・住宅地エリア側からのものです。
この写真は画質を下げて掲載していますので、
これからは見えませんが、
元データには「動物公園交差点・信号機」が、
「踏切ですか?」という、時代を象徴する信号機
だったことも見て取れます。
−八木山ベニーランド貯蔵−
「レストラン・アンデルセン」さん、
「エッソ」さんが姿を消してしまった事で、その分、
ベニーランドの正面広場がグッと広がったのは、
現在の状況からも見て取れます。
反面、この付近に存在した商店などの、
昔の賑やかさも消えてしまっている気がします。
変わっていないように見える八木山エリアも、
さすがに昭和40〜50年代の頃と比べると、
ケヤキや桜の木などの植物の成長、
タイトルにある八木山ベニーーランド、
さらにはお店なども、だいぶ変わっているんですね。
★★★
昭和43年4月14日、
東北地方で初めての総合遊園地として開園したのが
「八木山ベニーランド」です。
現在では、春になると桜が咲き乱れ、
ビシッとした情景が広がっていますが、
開園当初は、現在とは全く違う風景でした。
乗り物も、今とは種類が異なっており、
物価の関係で「乗り物価格も激安」です。
コーヒーカップ「20円」、
ジェットコースター「60円」、
ゴーカート「1人乗り40円」、
ゲームコーナー「10円」・・
となっています。
昨年の震災でダメージが出たため、
残念ながら無くなってしまった「荒野の野砲」。
これは開園当初からあり、40円でした。
−八木山ベニーランド貯蔵−
開園前の、工事をしていた頃の貴重写真です。
昭和41〜42年頃でしょうか。
そして今回注目したいのが、
右上にある「建物」です。
−八木山ベニーランド貯蔵−
交差点の角にあるのが、
八木山エリアの地元出身で知る人ぞ知る、
レストラン「アンデルセン」さんです。
正確に記憶していませんが、
建物が無くなってから20年近くが経つでしょうか。
そして左隣にある建物が、
「ガソリンスタンド・エッソ」さんです。
当時「エッソ・サービス」と看板も出ていました。
ベニーランドが開園する前からあったんですね。
ベニーランド前にあった「エッソ」の名前は、
「エッソ石油 エイトリー八木山SS」でした。
お分かりかと思いますが、
運営は八木山ベニーランドの会社でもある
(株)エイトリーさんです。
この八木山SSがいつ頃まであったのか、
この記事を書く時に事前に調べたのですが、
正確な時期が把握できませんでした。
推定ですが、
撤退して10年経っているかな・・くらいです。
同じ八木山内・八木山緑町エリアにも
「エッソ緑町SS」がありましたね。
ここも現在はなく、3年ほど前に無くなりました。
確か、ガソリンが急騰していた時期だったはずです。
経営は、2つのエッソとも、
(株)エイトリーさんです。
−取材班K 提供写真 −
別のご提供写真でも、
「アンデルセン」さん「エッソ」さんが、写り込んでいます。
この写真は昭和42年11月撮影です。
本町・住宅地エリア側からのものです。
この写真は画質を下げて掲載していますので、
これからは見えませんが、
元データには「動物公園交差点・信号機」が、
「踏切ですか?」という、時代を象徴する信号機
だったことも見て取れます。
−八木山ベニーランド貯蔵−
「レストラン・アンデルセン」さん、
「エッソ」さんが姿を消してしまった事で、その分、
ベニーランドの正面広場がグッと広がったのは、
現在の状況からも見て取れます。
反面、この付近に存在した商店などの、
昔の賑やかさも消えてしまっている気がします。
変わっていないように見える八木山エリアも、
さすがに昭和40〜50年代の頃と比べると、
ケヤキや桜の木などの植物の成長、
タイトルにある八木山ベニーーランド、
さらにはお店なども、だいぶ変わっているんですね。
★★★
2012年05月08日
八木山のバイブル本 地域の町内会
★★★
八木山エリアに限らず、
それぞれの地域に存在する「町内会」。
「町内会費」等も存在するため、
若い方などは「なんで町内会なんて存在するの!?」
という考えを持っている方も多いのではないかと思います。
回覧板が回ってきても「どうせ見ないし! 興味ないし!」みたいな事も、
感じることが多い人もいるでしょう。
例えばですが、
皆さんの住む家の回りで何か不都合なことがあったとします。
危険だから、ガードレールを付けて欲しいとか、街灯が欲しいとか、
そういうものの「要望」などです。
そういうものは、
「役所」に直談判しなくてはならないパターンです。
要望書などですね。
ただ、地域内のこういうパターンは、
あなた1人の力では、どうしようも出来ないことが多いです。
それはそうです。
簡単に言えば、役所に対しては、説得力が弱いです。
1人1人相手にしては、役所もパンクしてしまいます。
信用性も弱いですし。
友だちなら信用できますが、初対面の方なら信用できない・・
そんなものと一緒かも知れません。
色々求めているのは、あなただけかも知れない。
隣近所は、そう思っていないかも知れない。
そういう事を思われても、おかしくありませんよね。
そういう時などに、
まとめてくれる地域組織体が「町内会」です。
そして、
今回の東日本大震災での「災害対策」や「地域コミュニティ」は勿論、
町内の「掃除」「イベント」「学校関係」等・・
色々なことで尽力する役割もあります。
「地域のことは、自分たちで」 これですね。
持ち回りで「役割」もあるため、
メンドーと思うこともあると思いますが、
昨年の震災で「重要性」を再確認され始めているそうです。
当サイトで、「八木山の歴史」などを記事にする時、
様々な資料を参考にしますが、
「参考になるベスト3・バイブル本」として重宝しているのが、
この「八木山地区連合町内会10年史 〜拾年の歩み〜」です。
昭和46年3月20日に結成された「八木山連合町内会」が、
10年の節目に発行した、180ページ以上の冊子です。
この冊子の凄いところが、
八木山エリアの会社、学校関係、町内会役員は勿論のこと、
住民に至るまでの個人の方々が、
「八木山の思い出」を綴っていることです。
これが非常に素晴らしく、参考になります。
この冊子は、販売されたものではなく、配られたものです。
八木山の代表的バイブル、右にもリンクしている
石澤先生の「八木山物語」でも、参考資料としていたそうです。
八木山エリアの、大昔の写真も掲載されており、
かなり読み応えのあるものです。
著作があるため参考程度に掲載しますが、
「八木山球場」の回りに存在した、
「八木山遊園地」の写真も掲載されています。
遊園地の写真は、これでしか見たことがありません。
上記に書いた通り、会社や学校関係、町内会内の方々の
「思い出話」が大量に掲載されており、
見方を変えれば「個人情報」が大々的に出てしまっています。
1人1人に許可を取らねばならない状態のため、
「再・発行」することは不可能に近いのが、残念なところでしょうか。
おそらく、当時の連合町内会の中に住んでいた家庭には、
この冊子が押し入れなどに眠っているパターンがあると思います。
捨ててしまった方もいるかも知れません(^_^;)
このようなバイブル本を制作したのも、
冒頭に記載した「町内会」です。
町内会の功績です。
こういう冊子は、時間が経つと「重要性が増し続ける」という、
「素晴らしい記録のひとつ」。
もし、当時から住んでいる方、実家を探してみてはいかがですか?
★★★
八木山エリアに限らず、
それぞれの地域に存在する「町内会」。
「町内会費」等も存在するため、
若い方などは「なんで町内会なんて存在するの!?」
という考えを持っている方も多いのではないかと思います。
回覧板が回ってきても「どうせ見ないし! 興味ないし!」みたいな事も、
感じることが多い人もいるでしょう。
例えばですが、
皆さんの住む家の回りで何か不都合なことがあったとします。
危険だから、ガードレールを付けて欲しいとか、街灯が欲しいとか、
そういうものの「要望」などです。
そういうものは、
「役所」に直談判しなくてはならないパターンです。
要望書などですね。
ただ、地域内のこういうパターンは、
あなた1人の力では、どうしようも出来ないことが多いです。
それはそうです。
簡単に言えば、役所に対しては、説得力が弱いです。
1人1人相手にしては、役所もパンクしてしまいます。
信用性も弱いですし。
友だちなら信用できますが、初対面の方なら信用できない・・
そんなものと一緒かも知れません。
色々求めているのは、あなただけかも知れない。
隣近所は、そう思っていないかも知れない。
そういう事を思われても、おかしくありませんよね。
そういう時などに、
まとめてくれる地域組織体が「町内会」です。
そして、
今回の東日本大震災での「災害対策」や「地域コミュニティ」は勿論、
町内の「掃除」「イベント」「学校関係」等・・
色々なことで尽力する役割もあります。
「地域のことは、自分たちで」 これですね。
持ち回りで「役割」もあるため、
メンドーと思うこともあると思いますが、
昨年の震災で「重要性」を再確認され始めているそうです。
当サイトで、「八木山の歴史」などを記事にする時、
様々な資料を参考にしますが、
「参考になるベスト3・バイブル本」として重宝しているのが、
この「八木山地区連合町内会10年史 〜拾年の歩み〜」です。
昭和46年3月20日に結成された「八木山連合町内会」が、
10年の節目に発行した、180ページ以上の冊子です。
この冊子の凄いところが、
八木山エリアの会社、学校関係、町内会役員は勿論のこと、
住民に至るまでの個人の方々が、
「八木山の思い出」を綴っていることです。
これが非常に素晴らしく、参考になります。
この冊子は、販売されたものではなく、配られたものです。
八木山の代表的バイブル、右にもリンクしている
石澤先生の「八木山物語」でも、参考資料としていたそうです。
八木山エリアの、大昔の写真も掲載されており、
かなり読み応えのあるものです。
著作があるため参考程度に掲載しますが、
「八木山球場」の回りに存在した、
「八木山遊園地」の写真も掲載されています。
遊園地の写真は、これでしか見たことがありません。
上記に書いた通り、会社や学校関係、町内会内の方々の
「思い出話」が大量に掲載されており、
見方を変えれば「個人情報」が大々的に出てしまっています。
1人1人に許可を取らねばならない状態のため、
「再・発行」することは不可能に近いのが、残念なところでしょうか。
おそらく、当時の連合町内会の中に住んでいた家庭には、
この冊子が押し入れなどに眠っているパターンがあると思います。
捨ててしまった方もいるかも知れません(^_^;)
このようなバイブル本を制作したのも、
冒頭に記載した「町内会」です。
町内会の功績です。
こういう冊子は、時間が経つと「重要性が増し続ける」という、
「素晴らしい記録のひとつ」。
もし、当時から住んでいる方、実家を探してみてはいかがですか?
★★★
2012年02月09日
八木山付近 超・貴重写真 「青葉城址・天守台ルート」
★★★
八木山エリア付近で、
震災の影響が色濃く残る代表的な場所が、
「青葉城址・天守台ルート」です。
よく当サイトでは「青葉城址ルート」と呼んでいる
石垣が崩落して通行止めになっているこの道路。
平成21年11月27日 撮影
仙台市道「仙台城跡線」という名称が付いており、
隅櫓の交差点から八木山橋までの1412.2メートルの道を
仙台市では指定しています。
若い方は、「天守台ルート」という呼び方をしていないと思いますが、
ベテラン世代の方は、こう呼んでいる方も多いと思います。
仙台城趾は「天守閣」というものが無いことで有名な山城ですが、
天守閣とは、城の一部分のことを言います。
一定の条件を満たした木造の建造物の事です。
大阪城や、宮城県では白石城などに天守閣がありますね。
そして「天守台」とは、
その天守閣が載っている石垣作りの「台」の事です。
仙台城では、以前に修復されたこの石垣になります。
そして、この天守台ルートの貴重写真を提供して頂きました。
誠にありがとうございました。
1963年(昭和38年)・2月9日の写真です。
そうです。 約49年前の、今日の写真です。
1963年(昭和38年)2月9日 撮影
2011年(平成23年)11月28日 撮影
49年前の今日は、積雪があったようですね。
八木山付近・超・貴重写真シリーズでは、
現在の段階では一番古い写真ではないでしょうか。
微妙にアングルは違いますが、
舗装されていない道路、多く残っている木など、
今とは違う風景が多いですね。
昭和初期に八木山橋が完成し、
仙台市街地から現在の八木山動物公園付近・当時の八木山球場が
あった付近までの近道として親しまれていたこの道。
近道感覚は、現在でもそうですね。
この道は当時から、歩く道として親しまれ、
時代が移り変わり車道として機能していた現在。
震災の通行止めにより、昔に戻った風景が今はあります。
★★★
八木山エリア付近で、
震災の影響が色濃く残る代表的な場所が、
「青葉城址・天守台ルート」です。
よく当サイトでは「青葉城址ルート」と呼んでいる
石垣が崩落して通行止めになっているこの道路。
平成21年11月27日 撮影
仙台市道「仙台城跡線」という名称が付いており、
隅櫓の交差点から八木山橋までの1412.2メートルの道を
仙台市では指定しています。
若い方は、「天守台ルート」という呼び方をしていないと思いますが、
ベテラン世代の方は、こう呼んでいる方も多いと思います。
仙台城趾は「天守閣」というものが無いことで有名な山城ですが、
天守閣とは、城の一部分のことを言います。
一定の条件を満たした木造の建造物の事です。
大阪城や、宮城県では白石城などに天守閣がありますね。
そして「天守台」とは、
その天守閣が載っている石垣作りの「台」の事です。
仙台城では、以前に修復されたこの石垣になります。
そして、この天守台ルートの貴重写真を提供して頂きました。
誠にありがとうございました。
1963年(昭和38年)・2月9日の写真です。
そうです。 約49年前の、今日の写真です。
1963年(昭和38年)2月9日 撮影
2011年(平成23年)11月28日 撮影
49年前の今日は、積雪があったようですね。
八木山付近・超・貴重写真シリーズでは、
現在の段階では一番古い写真ではないでしょうか。
微妙にアングルは違いますが、
舗装されていない道路、多く残っている木など、
今とは違う風景が多いですね。
昭和初期に八木山橋が完成し、
仙台市街地から現在の八木山動物公園付近・当時の八木山球場が
あった付近までの近道として親しまれていたこの道。
近道感覚は、現在でもそうですね。
この道は当時から、歩く道として親しまれ、
時代が移り変わり車道として機能していた現在。
震災の通行止めにより、昔に戻った風景が今はあります。
★★★