2012年10月24日

八木山本町エリア 「超・貴重写真」

★★★



「八木山エリア」。


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その中の八木山動物公園、八木山ベニーランドの向かい側。

「八木山本町1丁目」「八木山本町2丁目」のエリア。

動物公園・ベニーランドを含めると、
およそ100万uの区域になっています。

八木山エリアの宅地開発の中では「後半」に造成されており、
昭和40年代に入ってからになります。

現状でのラストの宅地造成は「八木山南エリア」になります。

「八木山本町1丁目」「八木山本町2丁目」は、
『仙台市 八木山土地区画整理組合』が主導していて、
施工は「鹿島建設」「野呂建設」さんで行われました。


ここで、1冊の資料をご紹介します。


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この土地に住む取材班が、大切に保管して頂いていました。
記録や資料は、「宝」ですね。


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上記で「本町1」「本町2」の宅地開発は「後半」と
記載しましたが、
さらに順をつけると「本町1」が先行して行われました。

2丁目は、所有権等の諸事情が絡んでいたため、
少し遅れました。

写真は、当時はまだ形になっていなかった「恐竜山」から
TBC東北放送方面を写した写真です。

撮影時期は「昭和42〜43年頃」と思われます。


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本町2丁目の区画(手前)が、
まだ手付かずであることが分かります。
「元々の地形」が分かる箇所もあります。

八木山小学校・中学校の建設予定地が分かります。
まだ建設されていません。


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震災前になりますが、
現在の「八木山小学校通り」の写真です。

これが43年頃にはどうだったのでしょう。


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以前あった、コンビニ「サンクス」さん付近から、
登り方面を撮影したアングルです。

当時は「砂利道」だったことが分かるでしょうか。

右にあるのは、恐らく道路標識と思われますが、
かなり低い位置にありますね。

電信柱は、少しだけ存在していますね。
まだ家が多くないためです。


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そして、地下鉄東西線工事で、現在はガラッと変わった
ファミレス「COCO’S」さん付近。

動物公園駐車場の入り口が機能していた頃。
この風景は、まだ見覚えがある方も多いですよね。

ここの昭和43年頃の写真です。


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何か・・気づくことがありますよね。

当時は、「3車線」しかなかったんですね。
取材班も初めて知りました。

この当時、まだ本町2丁目方向・フレッシュフード・アダチさん
のある交差点付近は「工事中」で、
写真のように舗装されていなかった時期です。


この道幅を、
どうやって今の「4車線」にしたのか不明です。。

拡幅して広げたのでしょうか・・。
それとも、ただ車線を増やしたのでしょうか・・。

比べてみると、車線を増やしただけのような気がします。

当時も、道路が傾斜していますね。

この傾斜地点で、現在「工事」を行っていますので、
ある意味では約45年ぶりに工事を行っているという
ことなんですね。


八木山本町一丁目(1968_9)1.jpg



以前、別の取材班が所有・提供して頂いた写真を
紹介しましたが、
ほぼ同時期の頃の「COCO’S」さん付近です。

昭和43年と記録されています。


昭和の八木山エリアと、平成の八木山エリア。
この頃の八木山エリアを知っている世代と、知らない世代。


昨日記事にした緑ヶ丘エリアと同様に、
昨年の震災での「地滑り被害」が、
この本町エリアでも起きており、
公共事業として一部区画で対策工事が入ることに
なっています。

歴史を辿ると、いろいろと分かることも多いですが、
特に震災を堺に、
興味を持って昔を調べる若い方も多いそうですね。

それと同時に、地域に興味を持って頂ければ、
八木山エリアも上手に後世に残すことが出来ると思います。

歴史の上に、私たちは住んでいます。





★★★
posted by 八木山取材班 at 20:36| 宮城 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 太白区八木山界隈 今昔 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年07月13日

八木山橋 あの頃

★★★



昭和6年、
軍用道路の吊り橋として開通した「八木山橋」。

八木山エリア付近に住む住人にとっては、
必要不可欠な「橋」です。


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(株)東北記録映画社 貯蔵


当初は、「吊り橋」です。

長さ106.7メートル。
幅3.7メートルでした。

取材班は当時の橋を通ったことがありませんが、
「ゆらゆら揺れる吊り橋」だったそうです。

橋の隙間からは、
竜ノ口渓谷が見えるという恐ろしさだったと。


八木山橋.jpg
取材班K 提供


当時は一種の「観光スポット」でもあった訳ですね。

そして現在のコンクリート橋の八木山橋は、
昭和40年4月に完成しました。


全長177メートル、幅8.5メートル。
当時の吊り橋から比べると、
全長が70メートル伸び、幅5メートル広くなっています。


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八木山ベニーランド貯蔵 昭和48年当時


「三輪以上 8時〜18時 駐車禁止」の標識が、
特に印象的です。

現在でも「八木山橋」のバス停もあることから、
「観光地」として機能していたことが分かります。

八木山橋に駐車して、風景や下を眺めるといった方々が
多くいたことを意味しています。

いつから、変わってしまったのでしょう。

建設当時の八木山橋は、
防護柵は高く設置されていませんでした。

ご存じの通り、自殺の名所としても広まっており、
現在でも騒ぎがあるほどです。
ヘリが飛んだり、消防車が出場したりと、
年に1度はあります。

観光地としても機能している、
そして住宅地としての「八木山エリア」としても、
結構厄介な問題です。

何とかしないといけませんよね。

現在はネット社会でもあるので、
昔と比べ、デマも含めて情報も早いです。


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八木山ベニーランド貯蔵 昭和48年当時


昨年の震災で、ダメージが出た同じ付近を、
昭和48年当時、ビシッと工事している状況が見て取れます。

宮城県沖地震でも、
橋脚付近に軽くダメージが出ましたが、
通行止めなどの処置、交通規制が敷かれると、
かなり不便になるのが、この八木山橋でしょう。


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八木山ベニーランド貯蔵 昭和48年当時


橋を渡って、八木山方向の道、
現在とだいぶ違うことが分かるでしょうか?

「どこの山に向かうのサ?」

という感じの道に見えますね。

道路上の景観・・大事ですね。
こんなに違うんです。


「道の景観」は変われど、
40年以上、変わっていない八木山橋ルート。

観光シーズンなどでキャパをオーバーすると、
すぐ渋滞してしまう特徴も、現在でもあります。

朝の渋滞は、昔ほどではなくなりましたが、
よくぞ40年以上も、同じ状態を続けられたものです。

新しい道、必要だと思うのですが、
地下鉄東西線が開通した後、
もしくは「パンダ」が本当に来るのなら、
都市計画道路を本当に20年近く放置したままに
するのでしょうか。

お金はかかるでしょうけど、昭和50年近くからずっと、
八木山の町内会から陳情書が出ていたんですから、
何とかならないものでしょうか・・。

必要じゃないと思うものが造られ、
必要と思うものが造られないこと。

これは、誰が決めているのでしょうか?



★★★
posted by 八木山取材班 at 22:48| 宮城 ☁| Comment(4) | TrackBack(0) | 太白区八木山界隈 今昔 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年07月12日

八木山ベニーランド付近にあったもの

★★★



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昭和43年4月14日、
東北地方で初めての総合遊園地として開園したのが
「八木山ベニーランド」です。

現在では、春になると桜が咲き乱れ、
ビシッとした情景が広がっていますが、
開園当初は、現在とは全く違う風景でした。

乗り物も、今とは種類が異なっており、
物価の関係で「乗り物価格も激安」です。

コーヒーカップ「20円」、
ジェットコースター「60円」、
ゴーカート「1人乗り40円」、
ゲームコーナー「10円」・・
となっています。

昨年の震災でダメージが出たため、
残念ながら無くなってしまった「荒野の野砲」。
これは開園当初からあり、40円でした。


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−八木山ベニーランド貯蔵−


開園前の、工事をしていた頃の貴重写真です。
昭和41〜42年頃でしょうか。

そして今回注目したいのが、
右上にある「建物」です。


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−八木山ベニーランド貯蔵−

交差点の角にあるのが、
八木山エリアの地元出身で知る人ぞ知る、
レストラン「アンデルセン」さんです。

正確に記憶していませんが、
建物が無くなってから20年近くが経つでしょうか。

そして左隣にある建物が、
「ガソリンスタンド・エッソ」さんです。
当時「エッソ・サービス」と看板も出ていました。

ベニーランドが開園する前からあったんですね。

ベニーランド前にあった「エッソ」の名前は、
「エッソ石油 エイトリー八木山SS」でした。

お分かりかと思いますが、
運営は八木山ベニーランドの会社でもある
(株)エイトリーさんです。

この八木山SSがいつ頃まであったのか、
この記事を書く時に事前に調べたのですが、
正確な時期が把握できませんでした。
推定ですが、
撤退して10年経っているかな・・くらいです。

同じ八木山内・八木山緑町エリアにも
「エッソ緑町SS」がありましたね。
ここも現在はなく、3年ほど前に無くなりました。
確か、ガソリンが急騰していた時期だったはずです。

経営は、2つのエッソとも、
(株)エイトリーさんです。

八木山本町一丁目東部(1967_1.jpg
−取材班K 提供写真 −


別のご提供写真でも、
「アンデルセン」さん「エッソ」さんが、写り込んでいます。

この写真は昭和42年11月撮影です。
本町・住宅地エリア側からのものです。

この写真は画質を下げて掲載していますので、
これからは見えませんが、
元データには「動物公園交差点・信号機」が、
「踏切ですか?」という、時代を象徴する信号機
だったことも見て取れます。


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−八木山ベニーランド貯蔵−


「レストラン・アンデルセン」さん、
「エッソ」さんが姿を消してしまった事で、その分、
ベニーランドの正面広場がグッと広がったのは、
現在の状況からも見て取れます。

反面、この付近に存在した商店などの、
昔の賑やかさも消えてしまっている気がします。

変わっていないように見える八木山エリアも、
さすがに昭和40〜50年代の頃と比べると、
ケヤキや桜の木などの植物の成長、
タイトルにある八木山ベニーーランド、
さらにはお店なども、だいぶ変わっているんですね。



★★★



posted by 八木山取材班 at 21:13| 宮城 🌁| Comment(9) | TrackBack(0) | 太白区八木山界隈 今昔 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月08日

八木山のバイブル本 地域の町内会

★★★


八木山エリアに限らず、
それぞれの地域に存在する「町内会」。

「町内会費」等も存在するため、
若い方などは「なんで町内会なんて存在するの!?」
という考えを持っている方も多いのではないかと思います。

回覧板が回ってきても「どうせ見ないし! 興味ないし!」みたいな事も、
感じることが多い人もいるでしょう。


例えばですが、
皆さんの住む家の回りで何か不都合なことがあったとします。
危険だから、ガードレールを付けて欲しいとか、街灯が欲しいとか、
そういうものの「要望」などです。

そういうものは、
「役所」に直談判しなくてはならないパターンです。
要望書などですね。

ただ、地域内のこういうパターンは、
あなた1人の力では、どうしようも出来ないことが多いです。

それはそうです。 
簡単に言えば、役所に対しては、説得力が弱いです。
1人1人相手にしては、役所もパンクしてしまいます。
信用性も弱いですし。
友だちなら信用できますが、初対面の方なら信用できない・・
そんなものと一緒かも知れません。

色々求めているのは、あなただけかも知れない。
隣近所は、そう思っていないかも知れない。
そういう事を思われても、おかしくありませんよね。

そういう時などに、
まとめてくれる地域組織体が「町内会」です。

そして、
今回の東日本大震災での「災害対策」や「地域コミュニティ」は勿論、
町内の「掃除」「イベント」「学校関係」等・・
色々なことで尽力する役割もあります。

「地域のことは、自分たちで」 これですね。

持ち回りで「役割」もあるため、
メンドーと思うこともあると思いますが、
昨年の震災で「重要性」を再確認され始めているそうです。

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当サイトで、「八木山の歴史」などを記事にする時、
様々な資料を参考にしますが、
「参考になるベスト3・バイブル本」として重宝しているのが、

この「八木山地区連合町内会10年史 〜拾年の歩み〜」です。

昭和46年3月20日に結成された「八木山連合町内会」が、
10年の節目に発行した、180ページ以上の冊子です。

この冊子の凄いところが、
八木山エリアの会社、学校関係、町内会役員は勿論のこと、
住民に至るまでの個人の方々が、
「八木山の思い出」を綴っていることです。

これが非常に素晴らしく、参考になります。

この冊子は、販売されたものではなく、配られたものです。

八木山の代表的バイブル、右にもリンクしている
石澤先生の「八木山物語」でも、参考資料としていたそうです。

八木山エリアの、大昔の写真も掲載されており、
かなり読み応えのあるものです。

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著作があるため参考程度に掲載しますが、
「八木山球場」の回りに存在した、
「八木山遊園地」の写真も掲載されています。
遊園地の写真は、これでしか見たことがありません。

上記に書いた通り、会社や学校関係、町内会内の方々の
「思い出話」が大量に掲載されており、
見方を変えれば「個人情報」が大々的に出てしまっています。

1人1人に許可を取らねばならない状態のため、
「再・発行」することは不可能に近いのが、残念なところでしょうか。

おそらく、当時の連合町内会の中に住んでいた家庭には、
この冊子が押し入れなどに眠っているパターンがあると思います。
捨ててしまった方もいるかも知れません(^_^;)

このようなバイブル本を制作したのも、
冒頭に記載した「町内会」です。

町内会の功績です。

こういう冊子は、時間が経つと「重要性が増し続ける」という、
「素晴らしい記録のひとつ」。


もし、当時から住んでいる方、実家を探してみてはいかがですか?




★★★














posted by 八木山取材班 at 22:22| 宮城 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 太白区八木山界隈 今昔 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月09日

八木山付近 超・貴重写真  「青葉城址・天守台ルート」

★★★




八木山エリア付近で、

震災の影響が色濃く残る代表的な場所が、

「青葉城址・天守台ルート」です。


よく当サイトでは「青葉城址ルート」と呼んでいる

石垣が崩落して通行止めになっているこの道路。



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平成21年11月27日 撮影



仙台市道「仙台城跡線」という名称が付いており、

隅櫓の交差点から八木山橋までの1412.2メートルの道を

仙台市では指定しています。



若い方は、「天守台ルート」という呼び方をしていないと思いますが、

ベテラン世代の方は、こう呼んでいる方も多いと思います。


仙台城趾は「天守閣」というものが無いことで有名な山城ですが、

天守閣とは、城の一部分のことを言います。

一定の条件を満たした木造の建造物の事です。

大阪城や、宮城県では白石城などに天守閣がありますね。


そして「天守台」とは、

その天守閣が載っている石垣作りの「台」の事です。


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仙台城では、以前に修復されたこの石垣になります。



そして、この天守台ルートの貴重写真を提供して頂きました。

誠にありがとうございました。


1963年(昭和38年)・2月9日の写真です。

そうです。 約49年前の、今日の写真です。



天守台道路19630209.jpg

1963年(昭和38年)2月9日 撮影
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2011年(平成23年)11月28日 撮影




49年前の今日は、積雪があったようですね。

八木山付近・超・貴重写真シリーズでは、

現在の段階では一番古い写真ではないでしょうか。


微妙にアングルは違いますが、

舗装されていない道路、多く残っている木など、

今とは違う風景が多いですね。


昭和初期に八木山橋が完成し、

仙台市街地から現在の八木山動物公園付近・当時の八木山球場が

あった付近までの近道として親しまれていたこの道。


近道感覚は、現在でもそうですね。

この道は当時から、歩く道として親しまれ、

時代が移り変わり車道として機能していた現在。


震災の通行止めにより、昔に戻った風景が今はあります。




★★★
posted by 八木山取材班 at 00:23| 宮城 ☀| Comment(2) | TrackBack(0) | 太白区八木山界隈 今昔 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする