取材班は、歴史にまつわる記事を好んで書いています。
ただ歴史にまつわる事ばかり書いてもつまらないので、
たまにこうやって切り込んでいっています。
八木山南のセブンイレブンから下る道。
皆さんも、今まで数え切れないほど通っていると思います。
「紙漉山金剛沢線」
そして、三叉路の交差点から鈎取方面に行く道路があります。
ここから700メートルの市道は、
「紙漉山金剛沢線」といいます。
「紙漉山」は、「かみすきやま」と読みますが、
付近の「紙漉山遺跡」からは縄文土器・石器が出土しています。
上記写真の場所は、傾斜のある坂道のため、
雪が降った日、
登ることが出来なくなるクルマが多発する場所として有名です。
最近の積雪でも、登ることが出来ない車が多発し、
朝に大渋滞したようです。
そして、この坂道の下ったところにある「橋」を、
皆さんは気にして見たことがあるでしょうか?
白いガードレールがある部分、実は「橋」なんです。
しっかり名前も付いています。
「金剛沢橋」 と言います。
長さ14メートル、幅7.4メートルのコンクリート橋です。
【後田川】
そして「金剛沢橋」の下を流れているのは、
金剛沢山に源を発している「後田川」です。
後田川は、昔は「金剛沢川」と呼ばれていました。
明治以降に後田川と呼び名が変わっているようです。
この「金剛沢橋」は、昭和37年3月に落成していて、
それまでは7メートルほどの木橋でした。
江戸末期、この道路を八木山南方面に突っ切った先に、
「鉱山」が発見されます。
金剛沢山林の御山守だった高山幸二郎氏が、
山の見回りの際に発見したと言われています。
この場所を試し堀りしたのが、文久2年<1862年>です。
坂本龍馬が生きていた時代ですね。
国の認可が下り本格的に採掘を開始したのが明治31年です。
鉱山から採掘されたのが、「亜炭」や「埋木」です。
八木山エリアの炭鉱で採掘されたのも同様です。
金剛沢鉱山の周辺の「木材」も含めて、
これらを運搬した当初は「馬」でした。
その後、大正12年頃に敷設されたのが「トロッコ」です。
全長約3キロ、西多賀から金剛沢、そして八木山南の三叉路に抜け、
Aコープ前を通過して鉱山入り口まで向かうルートでした。
下りは5分で一気に下りることができ、登りは30分かけて登るという
苦しい労働だったと思いますが、楽しそうな気もします。
幅90センチ、長さ約2メートルのトロッコは、
1日平均4回の往復があったようで、1回の積荷は約1トンだったそう。
取材班の子供の頃、放置されたトロッコを見た記憶もありますが、
実際にこれだったのかは定かではありません。
鉱山の全盛期は、昭和14年〜16年の時期と言われています。
そして、馬〜トロッコと流れた時代は、
ついに「トラックの時代」へ突入します。
この金剛沢鉱山までのトラック道路が完成したのが、
「昭和19年」です。
このタイトルにもある、当時の木製橋、
「金剛沢橋」の上を初めてトラックが通過したのも
昭和19年という事になります。
その後、この道路が主流で使用されるようになり、
金剛沢鉱山は昭和40年頃まで続きましたが、
八木山団地や八木山南団地の開発で、
鉱山は自然消滅してしまいました。
鉱山では土砂崩れなどで亡くなった方もおり、
その方々を記してある墓標もあります。
八木山と鈎取を結ぶ重要な生活道路も、
いずれ並行して走る「郡山折立線」に変わる日も近いでしょう。
この「金剛沢橋」、金剛沢鉱山がきっかけで造られた木製橋から
スタートした歴史。
橋1つで、色々の歴史を辿ることができますね。
★★★