2012年02月07日

後田川に架かる橋 「金剛沢橋」

★★★




取材班は、歴史にまつわる記事を好んで書いています。

ただ歴史にまつわる事ばかり書いてもつまらないので、

たまにこうやって切り込んでいっています。







八木山南のセブンイレブンから下る道。

皆さんも、今まで数え切れないほど通っていると思います。


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「紙漉山金剛沢線」


そして、三叉路の交差点から鈎取方面に行く道路があります。

ここから700メートルの市道は、

「紙漉山金剛沢線」といいます。 

「紙漉山」は、「かみすきやま」と読みますが、

付近の「紙漉山遺跡」からは縄文土器・石器が出土しています。


上記写真の場所は、傾斜のある坂道のため、

雪が降った日、

登ることが出来なくなるクルマが多発する場所として有名です。

最近の積雪でも、登ることが出来ない車が多発し、

朝に大渋滞したようです。


そして、この坂道の下ったところにある「橋」を、

皆さんは気にして見たことがあるでしょうか?



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白いガードレールがある部分、実は「橋」なんです。

しっかり名前も付いています。

「金剛沢橋」 と言います。

長さ14メートル、幅7.4メートルのコンクリート橋です。



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【後田川】




そして「金剛沢橋」の下を流れているのは、

金剛沢山に源を発している「後田川」です。


後田川は、昔は「金剛沢川」と呼ばれていました。

明治以降に後田川と呼び名が変わっているようです。


この「金剛沢橋」は、昭和37年3月に落成していて、

それまでは7メートルほどの木橋でした。



江戸末期、この道路を八木山南方面に突っ切った先に、

「鉱山」が発見されます。

金剛沢山林の御山守だった高山幸二郎氏が、

山の見回りの際に発見したと言われています。


この場所を試し堀りしたのが、文久2年<1862年>です。

坂本龍馬が生きていた時代ですね。

国の認可が下り本格的に採掘を開始したのが明治31年です。


鉱山から採掘されたのが、「亜炭」や「埋木」です。

八木山エリアの炭鉱で採掘されたのも同様です。


金剛沢鉱山の周辺の「木材」も含めて、

これらを運搬した当初は「馬」でした。


その後、大正12年頃に敷設されたのが「トロッコ」です。

全長約3キロ、西多賀から金剛沢、そして八木山南の三叉路に抜け、

Aコープ前を通過して鉱山入り口まで向かうルートでした。


下りは5分で一気に下りることができ、登りは30分かけて登るという

苦しい労働だったと思いますが、楽しそうな気もします。

幅90センチ、長さ約2メートルのトロッコは、

1日平均4回の往復があったようで、1回の積荷は約1トンだったそう。


取材班の子供の頃、放置されたトロッコを見た記憶もありますが、

実際にこれだったのかは定かではありません。


鉱山の全盛期は、昭和14年〜16年の時期と言われています。

そして、馬〜トロッコと流れた時代は、

ついに「トラックの時代」へ突入します。


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この金剛沢鉱山までのトラック道路が完成したのが、

「昭和19年」です。

このタイトルにもある、当時の木製橋、

「金剛沢橋」の上を初めてトラックが通過したのも

昭和19年という事になります。


その後、この道路が主流で使用されるようになり、

金剛沢鉱山は昭和40年頃まで続きましたが、

八木山団地や八木山南団地の開発で、

鉱山は自然消滅してしまいました。

鉱山では土砂崩れなどで亡くなった方もおり、

その方々を記してある墓標もあります。



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八木山と鈎取を結ぶ重要な生活道路も、

いずれ並行して走る「郡山折立線」に変わる日も近いでしょう。


この「金剛沢橋」、金剛沢鉱山がきっかけで造られた木製橋から

スタートした歴史。



橋1つで、色々の歴史を辿ることができますね。





★★★
posted by 八木山取材班 at 00:48| 宮城 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 太白区八木山界隈 今昔 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月20日

八木山エリア 超・貴重写真  昭和43年の八木山本町界隈

★★★






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一昔前まで、八木山動物公園駐車場の入り口として

利用されていた、さかみち。


現在は、地下鉄東西線に絡む道路拡幅によって、

この状態は無くなってしまいました。



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当時、この「さかみち」が残っていた頃、

この上から、現在の住宅地側へ向けて撮影された写真が、

このほど発見されました。


ビシッとご提供して頂きました。

誠にありがとうございます。




八木山本町一丁目(1968_9)1-1.jpg

昭和43年9月撮影 八木山本町エリア



昭和43年9月に撮影された、

現在のCOCO’Sさんやセブンイレブンさんがある

方向の1枚の貴重写真。



現在のCOCO’Sさん/整形外科クリニックさんの土地は、

昔は駐車場として利用されていました。

この写真でも、駐車場になっていることが分かります。


当時は「ロワール八木山」のマンションもなく、

コンビニも何もありません。


「路駐」が、かなり見られます。

工事関係の車両かとも思いましたが、

おそらく動物公園/ベニーランドへの観光客の車両だと

思います。

よく見ると、松ヶ丘に向かう下り坂にも、

かなり路駐されているみたいですね。


こういう時代だったんですね。


しかも、撮影位置から日赤病院方向は、

まだ「道路として機能していない」状態ですね。

土が、まだモリモリとしています。


以前ご紹介した、同じ方からのご提供写真を見ると、

この状態は明らかだと思います。



八木山19691011.jpg

昭和44年10月撮影 フレッシュフード・アダチ交差点付近




カラーになると、新しく見えますね。

上記は昭和44年、最初の白黒は昭和43年です。


現在の都市計画道路は「舗装されていない道路」

ということが分かります。


本当にこの写真は「名作」ですね。

昭和44年の状態が、たった1枚でほとんど把握できる

貴重な八木山写真です。




八木山本町一丁目(1968_9)1-1.jpg




現在のCOCO’Sさん側には、

1軒の建物も存在していません。


当時から住んでいた方以外、

あまり目にしたことがない風景ではないかと思います。

道路上に、「小屋がある風景」です(^_^;)


駐車場の場所は、平成初頭に完成した

「大文字」さん、ファミレス「CASA」さんが入るまで

存在していました。



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これと同じアングルを、

今まで撮影したいと思ったことがあるのですが、

松やケヤキが邪魔をするため、

これと同じアングルでは難しい現実がありました。


時代が経つと、木が生長するために、

昔と同じアングルで撮影する事が難しくなることが多いんです。



当時の「遠くに突き抜けている」風景は、

住宅、マンションが並ぶ現在の状態では、

完全に不可能な状態です。


当時のアングルでは、

この位置から桜木町や松ヶ丘が見えている状態ですので、

現在では、とても無理ですね。



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いろいろなモノが出来てしまえば、

もう後戻りは出来ない状態まで変貌してしまうものですが、

当時の風景を見ると、

現在、住宅がビッシリ建ち並ぶ場所を

「自然公園」などにする案は出なかったのかなと、

そんな考え方まで出てきてしまいました。


もし公園になっていたら、この本町地区に住む取材班、

八木山に住んでいたか分からないですし、

当サイトも生まれていないかも知れません。


これを、「縁」と呼ぶのでしょうね。





★★★

posted by 八木山取材班 at 17:04| 宮城 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 太白区八木山界隈 今昔 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月18日

八木山エリア 超・貴重写真 「八木山本町エリア」

★★★




先日の雪は大丈夫でしたでしょうか?


八木山地区では、1〜2センチほど積雪しました。

仙台市街地は積もるほどではなかったので、

恒例の「八木山雪」でした。


取材班、積雪した土曜日は朝6時出勤でして、

思い切りアイスバーンの中でした。

前日と言いますか・・、

夜中2時に帰宅し、そのまま朝6時に出勤という

スタイルだったために、

今回の雪の降り方は見守らせて頂いてましたが、

更新するパワーが残っておらず申し訳ありませんでした。



さて、今週は「八木山本町地区」です。


八木山エリアの宅地開発では「後発」になるでしょう。

「八木山本町地区」。


1丁目と2丁目に分かれており、

広い八木山エリアでは、標高の「てっぺん付近」に位置しています。


取材班は、実家も、居住地も、会社も「本町地区」ですが、

意外と見たことがないのが「本町地区の昔」です。


今回、当サイトを見て頂いている常連様から、

凄い「量と質」の「昔の写真」を提供して頂きました。

今回は、この写真のご紹介です。



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「恐竜山」より 



平成27年度<平成28年3月まで>に完成予定の地下鉄東西線、

動物公園駅<仮>が出来る場所は「八木山本町1地区」です。

今後、地下鉄が出来ることで、

見栄えも含めた動きが見られる地域です。


上記写真は恐竜山がある「本町2丁目」から「本町1丁目方向」

の撮影になりますが、

「勾配」が全体的にキツイ地域になっており、

「山」だった頃は、断崖絶壁アリ、沢がアリという

ハードな地形から現在の地形が造成されています。


本町1丁目と本町2丁目の宅地造成の大半は、

スーパーゼネコンの「鹿島建設」さんでした。

ゼネコン大手5社といわれる

鹿島建設、竹中工務店、清水建設、大林組、大成建設の一つで、

国内最大手の会社が施主で造成されました。


では、ご提供して頂いた写真です。



八木山本町一丁目より(1967_1.jpg




昭和41年11月の本町1丁目からの写真です。

奥の方には、本町2の恐竜山も確認できます。


看板に「鹿島建設」とある貴重写真です。



地面はアスファルトではなく、

家もないので、当然「電信柱」もありません。

電気さえ来ていない時期の写真ですね。


この昭和41年は八木山ベニーランドも無く、

大きいもので八木山動物公園、東北工業大学がありました、

という時期です。


「昔は、砂漠みたいだった」


というお話しを様々な八木山住民の方からお聞きしていましたが、

実際の「砂漠みたいだった」をご紹介できました。

この貴重写真のご提供、誠にありがとうございました。

上記でも紹介した通り、もっとあるんです(^^)/

後日、ビシッと。



白黒写真なので「かなり昔」に見えると思いますが、

私たちの目が「カラー」に見えているので、

当時と現在の宅地造成をしている場所、

イメージでは大差はないと思います。


ただ、今ある本町エリアの宅地が広がっている現状を見ると、

この写真の秘める説得力は、かなりのモノです。



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恐竜山からの眺望でも、

当時はこんなに家が建ち並んではいなかったでしょう。



八木山本町一丁目より(1967_1.jpg





東日本震災で津波被害を受けた地域の写真に、

ひょっとすると見えてしまうかも知れません。


写真・映像の記録は、その時の状況を映しだしています。


そして、その記録というものは、

人の感情が加わると「思い出」という名前に変化します。



この八木山本町の場所が、ゼロからスタートしたのなら、

津波被害を受けた地域も、

「なんとかなる、大丈夫」と勝手ながら思えてしまいました。




★★★

posted by 八木山取材班 at 20:51| 宮城 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 太白区八木山界隈 今昔 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月15日

超貴重写真 「緑ヶ丘エリア」の昔

★★★





緑ヶ丘エリアを取り上げた今週、

最後は「緑ヶ丘エリアの貴重写真」をお送りしましょう。



当サイト、「昔の八木山エリアの貴重写真」を

依然、ずっと、探しています!

ぜひ、宜しくお願いいたします。





当サイトに、

お名前は伏せていますが「かなりの貴重写真」を

続々と提供して頂いている方がいらっしゃいます。


本当にありがとうございます。


今回ご紹介するのも、その方からの1枚です。



東北工大より19691025.jpg

<東北工業大学より緑ヶ丘方面 昭和44年10月撮影>




今週、東日本大震災の緑ヶ丘エリアの現状を出しました。

1丁目地区の昭和32年付近を皮切りに、

昭和40年代にかけて開拓されていった緑ヶ丘地区。


その昭和44年10月、東北工業大学から撮影された1枚。

「桜木町」「青山」「緑ヶ丘」の地区が写っています。


左には大年寺山の「仙台放送テレビ塔」も、わずかに見えます。



東北工大より19691025−2.jpg




そして少し寄って見ると「緑ヶ丘3丁目・4丁目の傾斜地」、

「青山エリアの傾斜地」が写っていることが分かります。


宅地になっている場所も多いですが、

「ただの傾斜地」の部分も多く見えます。

特に3.4丁目の緑ヶ丘エリアです。


今回の震災で被害が集中した4丁目傾斜地。


上記の写真に、

取材班が震災直後、写真を撮影したポイントに、

ピンクのマーカーを付けてあります。


その場所が、下記の写真です。



IMG_5914.jpg




上の方に、東北工業大学が見えているのが分かるでしょう。

昭和44年貴重写真の「逆アングル」からの写真です。


宅地が傾くなどの被害が多く出た地区です。



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同じ場所から「大年寺山の方向」は、こんな感じです。

立ち位置が何となく分かるでしょうか。



取材班がいる会社は、様々なものを映像や写真で「記録」する

業務ですが、

当時の資料、写真、映像などは、「本当に貴重なモノ」です。


何気なく撮影された写真でさえ、

数10年後には「貴重な記録」として変化するものです。



緑ヶ丘地区を取材するにあたり

同じく緑ヶ丘エリアの「YOU SHOPあんどう」さんに

「昭和50年代の電話帳」を見せて頂きました。


本来、捨てて普通の電話帳が保管されていたことで、

当時存在した「店の名前」などを確認できました。


現在、私たちが住む八木山エリアを見ていても分かる通り、

土地の雰囲気は変わらなくとも、

「店が大幅に変化している」パターンが多いです。


今年の震災で、10軒近くの企業・商店が消え、

新しくできた店もありました。


数10年後、今ある電話帳でさえ「貴重な資料」になります。


「後世に残す」


出来れば、そう意識しつつ「八木山を残していきましょう。」







*明日・明後日、本業多忙に付き当サイトはお休みさせて頂きます。



★★★
posted by 八木山取材班 at 22:56| 宮城 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 太白区八木山界隈 今昔 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月13日

八木山エリア「超・貴重写真」  八木山本町一丁目公園祭り  

★★★




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動物公園付近の住宅エリア、「八木山本町地区」。

「八木山本町1丁目」「八木山本町2丁目」という地区に

存在する公園があります。


「八木山本町1丁目公園」です。


私が子供の頃は、八木山第一公園、さらに略して「第1公園」

という名称で呼んでおり、

八木山本町2丁目エリアに存在する「松風公園」がありますが、 

このまま松風公園とも呼んでいますが、

八木山本町2丁目にあるので、「第2公園」とも呼ばれていました。



今の状態の「八木山本町1丁目公園」は、

平成11年に新しくなり、今の姿になっています。



今月の9月24日(土)に、

毎年恒例の「八木山本町一丁目公園祭り」が行われます。



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この公園に「防災倉庫」ができまして、そのお披露目会、

模擬店、演奏会、ゲーム大会などを開催します。


当日は「芋煮」も行いますので、

「おはし」と「おわん」を持参して下さいね♪


10時30分〜14時00分までの開催です




町内へのポスターは、昔からの知恵ですよ♪

毎週必ず立ち寄る場所に「広告」されています。


そうです、「ゴミ集積場」ですね。 ゴミを出すところです。


催し物を行うのに「集客」はもちろん欠かせないですよね。

それを「どうやって、住民に周知して貰うか」、

「広報」という意味では、けっこう難しいんですね。

予算もありませんから、「知恵」を絞る訳です。

お金があったらテレビとかにCMしたり出来るでしょうけど(^_^;)


各町内にあるゴミ集積場は、

毎週行きますので、こういうところに掲示する訳です♪


みなさん、ぜひお越し下さい♪



そして今回は、その「八木山本町一丁目公園の超・貴重写真」

をご紹介します。



はじめに、毎度の告知をさせて頂きます。



「八木山放送局Net」「八木山市民センター」では、

「昔の八木山エリア付近の古い写真」を探しています。


どうか実家の押し入れをオープンして頂き、

古いアルバムの中などから、

写真を探して頂けないでしょうか?


宜しくお願い致します。





八木山19690912.jpg

<観覧者・提供写真 1969年9月12日>

*八木山動物公園から、本町1丁目公園方向



撮影日は、昭和44年の9月12日です。 

今日は13日ですので、今から42年ほど前になりますか。


このご提供者様からは、何枚もご提供して頂いていますが、

撮影日がビシッと記載されていることが、大変貴重です。

撮影日も立派な記録の1つなんです。



実はこの写真、今では撮影が難しいアングルから

当時に撮影されています。


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現在ある、ファミレス「COCO’S」さんの向かい側、

動物公園の傾斜の上からなんですね。

当時は、撮影出来たそうなんですねぇ。

今はマンションもあるので、全く同じアングルからの撮影で、

同じ風景で撮影するのは無理でしょうか。。



昭和44年ですので、八木山小学校もありませんね。

それこそ「八木山本町1丁目公園」もありませんし、

COCO’Sさんも、当然ありません。 新地です。



右下に見える砂利道は、公園に下る道路です。


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当時の写真に写る道路は、今のこの道路です。

だいぶ今と違いますよね。

電信柱も「木製」ですし、今と風景がガラッと違うことが分かります。



何より「見晴らし」が違いますね。

昔はこのような景色で、八木山エリアからは見えていたんですよ。


クレジットで隠してしまいましたが、太平洋が一望出来ていることが

分かると思います。

レンズの関係もありますが、不思議と「海が近く」見えますね。

閖上方向だと思います。


震災が起きる前と違い、

今、海の部分を見ると「あるべき姿」を感じてしまいます。

震災が起きる前ならば、純粋に懐かしいという感じで

見ることが出来ると思うんですが。


そういった太平洋方面が写っているという意味でも、

大変貴重な写真記録ですね。



この写真で、家庭の中で色々と語って頂ければと思います。



皆さま、ぜひ八木山の昔の写真、宜しくお願いします。




追記・お知らせ致します。


先週、四国地方の「愛媛朝日放送」様から連絡を頂きまして、

当サイトで掲載していた、

「八木山エリア・震災後の公衆電話ボックスに並ぶ人々」の

写真提供依頼がありました。

ローカルニュース番組に「震災が起きた時の公衆電話の重要性」

について、番組企画内で使用して頂きました。


「写真提供:八木山放送局Net」のクレジットを入れて頂いた上で、

無償提供致しましたのでご報告致します。


さらに現在、

「テレビ東京」系のニュース番組からも提供依頼が来ておりますので、

追ってご連絡致します。




★★★



posted by 八木山取材班 at 21:34| 宮城 ☁| Comment(1) | TrackBack(0) | 太白区八木山界隈 今昔 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする