2011年09月01日

八木山エリア 懐かしの学校給食

★★★




新しくリンク承諾を頂きました。

八木山市民センター横にある「八木山 つどいの家」様です。

本日よりカテゴリーに追加致しまして、後日ご紹介致します。




さて、今日は「学校給食」のお話し。


取材班は昭和後期に八木山小学校を卒業、その後に「八木山中学校」

ですが、給食は「給食センター」のものでした。


八木山エリアの小学校では

「芦口小学校」「八木山南小学校」でしょうか、

管理栄養士を常駐させるなどして

自分の所で給食を作っている学校もありますね。


近年問題になっている「給食費・未納問題」がありますね。

取材班の頃は、封筒に入れて給食費を集めるという時代でしたが、

今は振り込みだそうですね。


この未納問題は、どうも取材班は理解出来ませんね。

表面上を見る限りでは。


去年伺ったところ、仙台市だけでも未納分は

150万以上に上っているそうで、

その余波は「給食の量」を減らすという状態になっています。


取材班の頃より、おかずの量・品数が少なくなっています、明らかに。




以前、掲示板で「給食は、黄色い樹脂のプレートだった」という

書き込みを頂きました。


取材班も、小・中学校と、黄色の樹脂プレートでした。

ご飯は四角い鉄管のようなモノに入っていて、

汁物は、黄色い樹脂の器だった気がします。

「パン・パン・ご飯」というサイクルの献立だった記憶もあります。


牛乳は、青いパックの森永牛乳だったでしょうか。

テトラパックの学校もあったようですね。

冬の時期には、ストーブの上に熱しているオケの中で、

温める生徒も多くいました。

温めすぎて破裂するというケースも多発していたでしょうか。



このテーマにあたり、

給食センターの、給食の資料を探しましたら、

これがまた、無いんですね。

どうやら給食センターには資料があるようです。


真っ先に見たのが卒業アルバムでしたが、

給食のカットがない訳です。 

こればかりは学校と契約している写真屋さんの関連も

多くあるんでしょう。


取材班は、交友関係に託しまして、

見つけましたよ♪ 友人から借用しました。


「仙台市立愛宕中学校」の卒業アルバムに、

平成初め頃の「給食センターの給食」が写っていました。


アルバム制作は「アサカワ写真スタジオ」さんです。

ファインプレーですね。 よくぞ記録に収めてくれていましたね。

生徒さんが写っていますので、処理した上で掲載させて頂きます。



名称未設定-1.jpg

「アサカワ写真スタジオ」



この1枚の写真だけで、色々語ることが出来ますね。

今はどのようにしているか分かりませんが、

給食の時間になると、

隣の机と対面向きにして食べていましたね。

「愛宕中学校」はテーブルクロスを敷いていたんですね(^_^;)


名称未設定-4.jpg

「アサカワ写真スタジオ」



画質が荒れてしまいましたが、この給食を見る限り、

「おかず・3品」「納豆」「ご飯」「牛乳」ですね。


見た目はあくまで推測ですが、おかずの3品は

「ひじき」「豚肉」「ナムル」でしょうか。


黄色いトレイのスペースに収まりきれず、

「豚肉」がご飯を置くスペースに「置かざる得ない」状態に

なっていることが分かります。


写真を見ると、自分の「箸」を持参しているようですが、

「先割れスプーン」もありましたよね(^_^;)

もう使っている学校は無いんでしょうか・・・。




以前、現在出されている給食を見たことがあります。

取材班の同級生と見たのですが、

「この量で、足りる?? しかも中学生にとっては・・」

という第一印象でした。


上記の給食費の関係が大きいですが、

「普通に給食費を払っている人が馬鹿を見る」とは、

こういう事ではないかと思います。



給食2.jpg

「アサカワ写真スタジオ」



「給食当番」というものがありましたね。

これは現在もあると思います。


給食着を着て、1週間やり続けるんですよね。

週末に洗って、月曜日に持ってくる。というサイクルだったでしょうか。


給食室から教室へ持ってくる時、

誤って「全開で、こぼしてしまう」という事があったりしましたね。

そのクラスだけ、1品おかずが消え去ってしまう訳です(^_^;)

きっついパターンは、「ご飯」を引っ繰り返してしまうという

事態もあった気がします。


幼稚園の弁当の場合は、引っ繰り返すのは自分の弁当だけなので、

クラスの友達や先生が、こぞって分けてくれるという、

「優しいお弁当」になるパターンがありますよね(^_^;)

気づけば、お母さんが作ってくれた弁当より「豪華になる」という

状態もあったでしょうか。



給食3.jpg

「アサカワ写真スタジオ」



学校給食を食べなくなって、みなさんはどれくらい経ちましたか?


これは昭和後期・平成前半に見られた仙台市給食センターのものですが、

学校によっては「トレイ」が全く違うと思います。

アルミの銀色したトレイや器だった所もあったでしょう。


牛乳が飲めなかった人、

食べきれなくて、午後の5時間目まで突入してしまっていた人、

嫌な思い出が多い方もいると思いますが、

こういう風に見ると、色々な思い出がたくさんある学校生活ですね。



「アサカワ写真スタジオ」さんに連絡を取ろうと思ったのですが、

現在は無いのかも知れません。 

給食の写真を探すだけで結構苦労しましたので、

こういう日常の写真記録を残して頂いたことに感謝致します。


修学旅行や運動会の写真など、卒業アルバムでは必ず載っていて、

当然大事な写真記録なんですが、

日常の学校生活の時にはカメラを持って行っていない時代でしたので、

「日常生活の記録こそ、忘れかけた記憶を戻してくれるもの」

なんでしょうね。





★★★



posted by 八木山取材班 at 22:19| 宮城 ☔| Comment(2) | TrackBack(0) | 太白区八木山界隈 今昔 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月14日

八木山エリアより 日本フィギアスケート 発祥の地  超・貴重写真

★★★




観覧者の皆さま、

「八木山エリア付近 昔の写真探しています」

のコーナーがやって参りました。


そろそろ「お馴染み」になってきましたか?



「八木山放送局Net」「八木山市民センター」では、

「昔の八木山エリア付近の古い写真」を探しています。



どうか実家の押し入れをオープンして頂き、

古いアルバムの中などから、

写真を探して頂けないでしょうか?

宜しくお願い致します。



今日ご紹介するのは、

観覧者の方からご提供して頂いた超・貴重写真です。



先日の「青葉城址ルート」の流れで紹介することにしました。

この場所を、どのタイミングで紹介すればよいか、

模索しておりました。


明後日からの「東北六魂祭」もありますので、

ここか! と思い、ご紹介致します。







八木山エリアと少し離れていますが、

「仙台城 隅櫓前」。


私たちは「青葉城」と呼ぶことが多いでしょうか。


かつて大手門があった場所の少し下側に、

「五色沼」という沼があります。


仙台市博物館の入り口ですね。


IMG_7415.jpg

<現在の五色沼>



五色沼という名称は、おそらく全国に点在していると思います。


仙台市にある五色沼は、

かつて仙台城が存在していた時代の「お堀」の一部に

なっていた場所です。


仙台市博物館がある場所は、

伊達政宗時代、庭園や茶室がある屋敷が存在していました。


時は流れ明治23年・1890年頃から、

「外国人が五色沼でスケートを始めた」とされていて、

後にスケート指導を受けた学生が、

「日本で初めてフィギアスケートをした場所」とされているのが

この「五色沼」です。


「日本フィギアスケート・発祥の地」と言われるのが、

この場所ということです。



ただ、この場所でスケートが行われていた写真記録は、

そんなに多く出回っていません。


そして、この場所でスケートが行われていた「証拠写真」と

言える貴重写真が、こちらです。



五色沼19640301.jpg

<観覧者・提供写真 1964年3月1日>



1964年・昭和39年の、

「五色沼・スケートを楽しむ仙台市民」の写真です。


今から約47年前になりますね。


当時、ビシッと氷が割れてしまうということも

普通にあったようですが、すごいですね。



IMG_7416.jpg

<現在の五色沼>




普通にここを訪れた方々は、

サラーッと「仙台市博物館」目的で、

あまり記憶に残っていない方も多いと思いますが、

凄い場所なんですよ、実は。


「ここでスケート、怖くない??」

と思う方、多いでしょう。

取材班もそう思いますが、結構頑丈に「氷が出来ていた」

そうですよ、当時は。


貴重のひとつに「撮影日・3月1日」と日付が残っています。

3月1日にここまで氷が張っている所を見ると、

「当時の方が、寒かった」ような想像さえ出来ますね。


かなりの雪景色になっています。

やはり今は温暖化なんでしょうか。


今では「氷が割れると危ない」が先行してしまいがちですが、

色々とこの写真から学び取れる事も多いのではと思います。



IMG_7417.jpg

IMG_7418.jpg




すぐ上の方に行きますと、

先日も掲載した「青葉城址入り口・隅櫓」があります。


東北大学の生徒さんが、

汗を流しながら自転車を漕ぐ姿が多く見られます。


現在は車両通行止めになっていることから、

クルマの交通量が少なく、

見方を変えれば「今までと違った風景」を見ることが出来ます。


風景写真も、とても撮影しやすいですね。


通行止めは、日常生活においては不便としか言いようないですが、

プラスに置き換えてみれば、

「情緒が増している」感じがします。


「自然豊か」な場所ではありますが、

クルマなどが多く通る「大動脈」の路線でもあるため、

「自然を満喫する気分」になりにくい現実は、

少なからずありました。


そういった意味では、この場所に立ってみた時、

「結構、気分は良いな」と思ったのも事実でした。


もともとあるべき姿に、戻ったような、そんな感じを受けます。


隅櫓前の石垣も、崩落はしていませんが

「危険性」があるようでブルーシートがかかっています。


写真を撮ろうとした時に、ここだけが少し残念です。


「15日・14時」から徒歩で通過出来るようになる

「青葉城址ルート」ですが、

せっかくですので「隅櫓前のブルーシート部分」だけ

先行して直して頂いた方が良い気がします。


どうしても写真を撮ると映り込んでしまうんですね(^_^;)



IMG_7433.jpg





八木山エリアは、こういった場所も近い住宅地ですが、

その有難みというのでしょうか、貴重な場所の近くに住んでいる

「充実感」のようなものも、今回の「徒歩のみ・開通」で、

改めて実感・体感して頂ければと思います。



反面、史跡の場所がダメージを受けると「復興が遅れる」という

予想外の事も、勉強させられてしまいましたが・・・。


この青葉城址ルートとは、別のルートの建設を、

急いで頂いた方が良いのかも知れませんね。





★★★

posted by 八木山取材班 at 15:02| 宮城 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | 太白区八木山界隈 今昔 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月23日

昔の八木山 「超・貴重写真」 恵和町編

★★★




大変ありがたい事です。


「昔の八木山の写真 探しています」の告知を、

古い写真を紹介しながら行っていますと、

ご連絡を頂く事が出来てきました。


大変ありがとうございます。

本当にありがとうございます。



今回も、告知させて頂きます。


「昔の八木山の写真 探しています。」


(株)東北記録映画社まで、メール・電話等でご連絡頂ければ幸いです。



写真をお預かりしますと、

同時に当サイトでも「完全保存」させて頂きますので、

提供して頂いた観覧者の、「大切な写真をバックアップ保存」する形

にもなります。


今回の震災では、津波で大切な写真を流された方々が多いです。

見方を変えれば、「その土地の、貴重な昔の記録写真」も

失った形にもなっています。


(株)東北記録映画社では、八木山の昔の資料に限っては、

「8oフィルムのテレシネ・DVDコピー」は

無料サービスで行っています。


古い八木山写真に関しても、スキャナーで読み取って

お客様と同時のバックアップ保存させて頂いています。


「ご自宅で何かがあっても、当社でも保存する」ため、

大切な八木山の古い写真は残ります。




さて、今回ご紹介させて頂くのが、「恵和町」です。


今回の震災では、比較的被害が出てしまった地域でもあります。


恵和町は、八木山の宅地造成が昭和30年後期から少しずつ始まり、

「向山〜香澄町・緑町」「緑ヶ丘」がすでに存在していた箇所から、

向山方向より「弥生町」「松波町」「桜木町」の順に進んでいき、

その後に造成された場所が「恵和町」と言われています。



まず、最初の1枚。

この写真は、「かなり貴重」です。

1966年・昭和41年の恵和町からの1カットです。


恵和町69.jpg

<観覧者提供写真>


*2度クリック拡大



恵和町、若葉町、八木山本町1〜2丁目方面が写る、

かなり貴重な写真です。


本町エリア・八木山東・若葉町などが「造成中の初期」「手付かず」の

状態が見て取れます。


「恐竜山」でさえ形が出来ておらず、その名称で呼ぶ事さえ不可能な

状態の時期の、かなり貴重な写真です。


恵和町には「畑」も存在していた事が分かりますね。

左前に写っています。



八木山動物公園が八木山で開園したのが昭和40年10月です。

同じく昭和40年に、この「恵和町を終点」に仙台市営バスが

初運行しています。



町内会名称では、昭和48年に名称が変わるまで、

恵和町町内会は「大塒町内会」と呼ばれていました。



「乱開発」と呼ばれていた頃で、

西の平方面への交通網もままならず、

「希望がある地域」と同時に様々な問題とぶつかり始めた時期では

なかったでしょうか。



恵和町69−1.jpg

<観覧者提供写真>



この写真は、昭和41〜44年頃ではないかと思います。

写真に記載がないため不明とさせて下さい。



「恵和町から金剛沢・西の平方向」のようです。

後ろは「蔵王」のようですね。


写真には写っていませんが、

八木山東にある「どぶ公園」と呼ばれる公園があります。

「芦の口緑地」が正式名称でしょうか。


当時はそのような通り名では呼ばれておらず、

その地域ごとで様々な呼び名があったそうです。


今のようにコンクリートで囲まれているような場所ではなく、

「下水」も含めて混ざっていたような沼の感じだったそうで、

雨が降った後は立ち入る事さえ難しい状態でしたが、

晴れていれば水分がないために「遊び場」と化していたような、

そんな場所だったそうです。



恵和町69−3.jpg

<観覧者提供写真>



顔にモザイクをかけさせて頂きましたが、

撮影時期は、1970年・昭和45年です。


後ろに太白山が見えます。

恵和町からの1カットです。


今の八木山には存在しない、「広大な新地」が印象的ですね。



恵和町70.jpg


IMG_0008.jpg

<観覧者提供写真>




これは、1969年・昭和44年です。


恵和町から本町エリアに向けて撮影されたものです。


コンクリートの建物は「東北工大寮」です。

現在の「みやぎ生協 八木山店」の場所です。


上記の白黒の昭和45年の白黒写真と比べて、

カラーになると、1年古い写真なのにかかわらず、

比較的新しい写真に見えるでしょうか。


工大寮の右後ろ付近に、滑り台のような坂が見えますが、

当時の航空写真と住宅を見る限りでは、

おそらく本町1丁目の市民センターから住宅側に降りた所にある

「階段」ではないかと思います。




恵和町2中心.jpg

<観覧者提供写真>



これは、1970年・昭和45年の写真です。


「恵和町」の中心部付近を撮影したものです。


分かる方には、分かる1カットです。


こういう「引きの写真」は、貴重なんですね。

全体が見えるので、後世に残すには「引き」のアングルが

素晴らしく貴重になるんです。



貴重です、本当に貴重な写真です。


本日も、お酒のお供に、昔話でもどうでしょうか?



ご提供して頂いた一部の写真をご紹介しました。


ご提供写真、大変ありがとうございました。



「八木山 あの頃の昔の写真展」を

八木山市民センターで開催してみたいです。



皆さまからも、ぜひ貴重な「昔の八木山写真」

お待ちしております。





★★★
posted by 八木山取材班 at 06:25| 宮城 ☀| Comment(7) | TrackBack(0) | 太白区八木山界隈 今昔 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月14日

昔の八木山 「超・貴重写真」

★★★






「八木山放送局Net」を運営してきて、

「幸せ」と感じる1つが「昔の八木山写真の発掘」です。


観覧者の方から、ご提供して頂いています。



「古い八木山写真、集めています。 

 皆さん、古いアルバムの中から探して下さいませんか?」




しつこいようですが、何度も連呼させて頂きますm(_ _)m

お願い致します。



小出しになってしまいますが、

古い写真をご紹介させて頂きながら、

アルバムの中を探してみようかなぁ・・という

「皆さまの、心を動かしたい」狙いでございます。







撮影場所は、本町エリア「ヤマザキ・フレッシュフード・アダチ」さんの

交差点から上を見ると「ライオンズマンション」があります。

その近くに昔にあった「越路神社」。


そのあたりから八木山小学校方向を撮影した「超・貴重写真」です。

地形が昔と違いますので、今ではこのアングルから撮影することは

難しいかも知れませんね。



2枚あります。 

最初は「昭和48年」の写真です。



写真は「観覧者提供写真」ですので、

著作権の画像処理をしてあります。

ご了承下さい。



越路神社手前より19730522.jpg

<観覧者・提供写真>


*2度クリックで、リンク拡大



どうです? 懐かしいでしょう?



ザッと見ると、

「半田酒店」「生協」「八木山小学校」「徳用相互銀行」が

見えます。


細かく見ると色々違うことが分かりますね。

個人宅も、建て替えられたりしているなど今と違います。


建てている真っ最中の家もありますし、

テレビ塔のアンテナ、ケヤキがまだ若いなど、

本当に色々な違いが分かります。



そして、1969年・昭和44年。


この年の出来事は「アポロ11号の月面有人着陸」が

あったでしょうか。


この時代のものは、貴重だと思います。

風景を撮っている方は、写真好きな方じゃないと、

そう撮影していないと思います。


八木山19691011.jpg

<観覧者・提供写真>


*2度クリックで、リンク拡大



家がほとんどありません。

八木山小学校も何もありません。

道路もアスファルトでもないですし、未完成ですね。

そういった部分では「地形」がはっきり見て取れます。


この時期の八木山は、

「砂漠みたいだった」という言葉をよく聞きますが、

分かる気がしますね。


ただお分かりの通り、元々山だった場所、

森林等を伐採しこの地形を造り上げていきました。


当時、造成をされる前の八木山に馴染んでいた方は、

この風景を見ると、寂しさも感じたかも知れませんね。


野生の動物や野鳥などが、たくさんいたと言います。

それを壊していった訳です。



東北工大の寮は、この時点であったんですね。

現在の「みやぎ生協 八木山店」の場所です。


電信柱がほとんど立っていないので、

そういう場所は「電気」が来ていませんし、

都市ガスや下水道も来ていません。


そういった意味では、

今の八木山エリアは「大変住みやすくなっている」訳です。



昭和44年の10月の写真のようですが、

本町2丁目付近の「造成・販売」が最後になっていることが、

この写真でもお分かりになりますね。


この時期は「八木山南」は造成されていないので、

日赤病院方向には、道路はありません。



もうひとつ注目したいのが、

八木山の向こう側、太平洋岸の景色もだいぶ違います。


今のようにマンションは乱立していませんし、

スカーン!と太平洋が一望出来ています。



以前記事にしましたが、

昔と今の、八木山から見える太平洋側の景色で、

「かなり変わった」と感じるのは「マンション乱立」などの

建物の増加、そして「夜の光量の増加」です。


特に「東北新幹線」と「東北本線」の電車の光が、

夜にはハッキリ見えました。

どの位置を通っているのか、大半で把握出来たんですね。


それが今では、ほとんど見えなくなっています。


まわりの光が強すぎて、電車の車両光りが負けているために

「見えにくい」んです。


街灯や街の灯りが強すぎて、

「夜の星空が見えない」のと一緒ですね。


良い悪いは別にして、

こういうところでも見える風景は変わっていったんですね。



この提供して頂いた写真で、

「お酒のお供に」、思い出話をして頂ければ幸いです。


そして、

「八木山の古い写真、お願い致します」





★★★
posted by 八木山取材班 at 23:17| 宮城 ☀| Comment(1) | TrackBack(0) | 太白区八木山界隈 今昔 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月25日

八木山の古い写真 ありませんか?

★★★




今回の震災、津波被害でピックアップされている

「津波で流された写真」。


古い写真は「銀塩写真」で、当然「紙」で、アルバムなどに

保管されていると思います。


やはり「デジタル媒体」や「パソコン」「サーバー」などに、

「バックアップ保存」しておこうかな・・

と今回の震災で思ったりしませんでしたか?


記録は貴重な資料ですので、

後世にずっと残したいものです。



現在保管してある写真を少しご紹介します。

お客様からのもので、「業者さん」が撮影したものですので、

コピー禁止の画像処理をさせて頂きました。

ご了承下さい。


「八木山小学校 昭和47年」の航空写真です。

八木山小1.jpg



2度、上記写真をクリックして頂くとリンク拡大出来ます。


当時、八木山小学校を卒業した方は、お持ちではないかと思います。

「人文字」を校庭に、「八木山小」と銘打っていますが、

当時は「右から左への文字」だったんですね・・。



この写真は「昭和47年」ですので、

当時から八木山小学校周辺にあった施設は、


・昭和44年 「八木山カトリック幼稚園」
・昭和46年 「みやぎ生協 八木山店」
・昭和46年 「徳陽相互銀行」*現・仙台銀行
・不明    「きく幼稚園」
・不明    「東北工業大学寮」

でしょうか。



八木山小4.jpg




道路に注目すると、少し面白いことが分かるでしょうか。


今はない「ナカノメ薬局」さん、「現・みやぎ生協」さんの前の

交差点に、「横断歩道」がありませんね。



そして「昭和49年7月30日」に完成した

「八木山小学校前 歩道橋」がありません。


その変わりに、その場所には「横断歩道」がありました。


さらによく見るとその交差点、「横断歩道が2本しか」ないですね。

上記の「カラー」のものを見るともっと分かりやすいでしょうか。



当時はまだ、ビシッと住宅がギッシリでなかったことも、

見て取れるのではと思います。



八木山小2.jpg




一方、今は新校舎になっていますが、

開校当時の八木山小学校を注目してみると、

「体育館」が、昭和47年にはありません。

翌年の昭和48年に完成しています。


現在、その体育館は震災でダメージが出ていて、

立ち入り禁止になってしまっています。


一方で本校を見てみると、

当時はこの形でしたが、増築をしたため、

後に「L字型の校舎」になっています。


滑り台もありませんし、遊具も充実しておらず、

「裏山」と呼ばれる木々が、ワサワサとしていませんね。


この裏山の木々に関しては、

この写真の昭和47年に植樹されています。


「体育倉庫」はこの段階であったようですね。


ちょっと面白かったのは、

「上校庭」の場所に「クルマが4台しか」見あたりません。


当時の先生方は、クルマで通勤していなかったのでしょうか(^_^;)

それとも校舎の裏側が駐車場だったのでしょうか。



八木山小3.jpg



こういう写真を持っている方々は、

当時の八木山を知る、貴重な人材でもありますね。



その当時、家を購入する時に「色々な逸話」を

聞いたことがあるといいます。

その1つが「地盤」です。



「松が丘エリア」がありますね。


取材班も疑問に思ったことがあるのですが、

松が丘エリアは、住宅地を突っ切る「バス路線」に

なっていますよね。

「どうして、あのルートを走るのだろう」と

思ったことがないでしょうか?


当時「バス路線は、地盤が頑丈な場所を走る」という

逸話があったそうなんです。


と言うことは、松が丘の住宅エリアのバス路線は、

「地盤が固い」という事なのかもしれませんね。


ま、これは一種の「都市伝説」のようなものかも知れませんけど。




こういったものも含め、

「古い写真」は、当時の思い出も含め、

「いろいろなモノを運んでくれる貴重な記録」になります。



古い当時の「八木山写真、ありませんか?」



「八木山市民センター」「八木山放送局Net」に、

ぜひ御一報願い致します。




★★★

posted by 八木山取材班 at 19:53| 宮城 ☀| Comment(8) | TrackBack(0) | 太白区八木山界隈 今昔 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする