★★★
撮影:株式会社東北記録映画社
「八木山放送局Net」として、
このサイトの運営を開始したのが、平成22年2月12日です。
早いモノで、今日で8ヶ月が経ちました。
これを記念して? 八木山の歴史を復習したいと思いました。
来月11月3日にある「秋の八木山フェスタ 2010」の
「前フリ」のような狙いもありますが、
楽しんで頂ければと思います。
さて、「八木山」というエリア、
みなさんはどのようなイメージを持つでしょうか?
最近、八木山をテーマとしたポスターを、八木山小学校・八木山南小学校
の生徒の皆さんに描いて頂きました。
「八木山フェスタ」でコンクールします。
応募作品は共催の各施設、子供会の地区の掲示告知なとに役立てるため、
優秀作品を表彰する予定になっています。
子供の目線では、「八木山」という場所をどう見ているでしょか。
大人でも、「八木山をイメージする」というテーマになると、
かなり難しいテーマです。
八木山動物園? 八木山ベニーランド? 東北工業大学?
八木山市民センター?日赤病院? 八木山橋? ・・・・
例えばこれらの施設を「単体」で描いてしまうと、
その施設のポスターとなってしまいますね。 「営業用」のように。
「八木山全体」として表現すると、なかなか難しい気がします。
色々な施設を羅列させてしまうと、
「との地域にもある、似たようなポスター」になりますしね。
「八木山ならでは」という表現にはならないと思います。
八木山の昔の名は「越路山」
「山を越える路であったことから付いた」
「鹿が恋をして、恋路で駆ける山」ということで
「越路」という意味とも言われたそうです。
江戸時代、仙台城と隣接していた越路山は、
防衛上で重要な場所だったために、藩政時代は「お止め山」と呼ばれ、
「一般人の立ち入り禁止区域」でした。
他に、山田、金剛沢、芦の口などの6つの山も同様です。
すなわち、関係者以外は、
人が踏み込まなかったエリアということ。
そのために樹木の鬱蒼とした大森林だったのです。
その後、「金剛沢」で亜炭が原木である、
そして仙台名産品でもある埋木細工の「埋木」が
発見されたのが江戸時代後期・1822年です。
埋木灰という最高級の灰。
亜炭層に含まれていて、埋木は炭化しているために、きめが細かい灰です。
亜炭層は青葉山段丘にあり、現在では主に大橋の付近にあります。
凝灰岩層の凝灰岩は、火山で起きた溶岩が堆積したもで、
溶岩の熱で蒸されて炭化した木が「埋木」です。
埋木は、家財道具に細工するなどして出来きますが、
これが埋木細工です。
現在では採掘されていません。
そして明治時代。
明治維新となって職を失った旧藩士840名に、
この越路山が仙台藩から与えられたのです。
今で言うと、国や県、市などが持つ土地の売却、
「払い下げ」というものです。
その土地で、木々の資源がありますので、
商売が出来ます。
しかしその後に国有地に編入する事になり
控訴問題に発展します。
今で言うと、仙台の問題に国が介入してきたという
ことですね。
「俺の土地だ!山だ!」 という訴訟問題です。
そして明治38年に、やっと840人の共有地という事で
解決しましたが、
その問題の間に、松などの大木は伐採されてしまったのです。
その後、大正時代になって樹木の伐採問題で業者と所有者の間で
訴訟問題が続発、
「訴訟の山」と呼ばれるまでになりました。
そこで、この問題に心を痛めていたのが4代目八木久衛兵氏です。
この頃の仙台市の死亡率は、全国3位という不名誉のモノでした。
4代目は、緑いっぱいの空気が綺麗な山に、
仙台市民の健康増進のため、パラダイスを造ろうと計画したのです。
そして、この「訴訟問題」に心を痛めていたため、
「訴訟ごと越路山を買い取る」という手段に出ます。
この4代目は七十七銀行の八代目頭取、
味噌造りなどの商売でも有名だった大富豪です。
しかし志半ばで4代目は死去、
意志を継いだのが5代目八木久兵衛氏です。
この5代目の時に「越路山」の買い取りを完了、
大正13年の事です。
この時に、越路山が「八木家の山」となりました。
その2年後の大正15年、
向山の長徳寺前から「向山ルート」の道路工事に着手、
昭和4年に完成。
この向山ルート同時進行するように、
昭和2年には、現在の八木山動物公園の場所に
「八木山野球場」の工事に着手します。
なぜ野球場なのかと言えば、
この頃の人気ナンバーワンのスポーツが野球だったのです。
それまでの仙台市には、大正12年完成の
仙台サンプラザ付近の「仙台体協球場」、
昭和4年完成、薬師堂「スポーツマン球場」がありました。
大きさは、東京の神宮球場と同じ大きさの、スタンド付きの野球場。
総面積33,000u、東北ナンバー1の野球場でした。
完成したのが昭和4年6月23日です。
仙台市では「3番目の野球場」との記録になっています。
さらに昭和6年と昭和9年には、アメリカ野球選抜チーム来て、
この八木山野球場で試合を行っています。
昭和9年のメンバーには野球王であるベーブ・ルースが参加しており、
八木山野球場で来日初ホームランを放っています。
現在、アフリカ園に銅像があります。
当時、このホームランボールを「清水浩三氏」がたまたま拾い、
その夜の宿舎で、ベーブ・ルースにサインまでしてもらい、
家宝にしていたそうです。
当時、このホームランボールは行方不明として、
ファンの間では大捜索もしていたようですが、
「幻の打球」と言われていました。
民衆の間では行方不明として騒がれていたボールは、
昭和47年に河北新報に「幻のボール見つかる」という
記事が掲載され、再び大騒ぎになりました。
この八木山野球場の完成が昭和4年、
向山ルートの完成も昭和4年ですので、この時期に合わせた形です。
さらに子供専用の「第一遊園地」、
運動専用の「第2遊園地」を続けざまに建設。
遊園地の場所は、現在の動物公園周辺です。
八木山市民センター付近と、さらにその住宅界隈が、
その遊園地の跡地です。
弓道場、テニスコート、バスケット、ラグビーなどが出来る総合運動場で、
いつでも道具を無料で貸し出ししていたそうです。
現在では「公園」と呼ばれるような施設ですが、
当時では「遊園地」と呼ばれる贅沢な施設でした。
向山ルートも野球場も、「すべてツルハシやスコップを用いた」
人力・人海戦術の工事でした。
ブルドーザーなどの重機は一切使っていないで造っています。
この頃は大不況の頃で、さらに農家でも不作の年の連続でした。
失業者や農家の人々は、この工事のおかげで大変救われたそうです。
この野球場は、作り終わった後に宮城県に「寄付」される太っ腹ぶりでした。
そしてさらに同時進行していたのが「八木山橋」の建設です。
やはり仙台市中心部からの「近道」は「青葉城趾ルート」です。
そのためには竜の口渓谷に橋を架ける必要がありました。
しかし、青葉城趾付近一帯が「陸軍用地」だったため、
橋を架ける認可がかなり難しかったようです。
しかし認可に漕ぎ着け、昭和6年8月、
幅3.6メートル、長さ108メートルの八木山橋の原型、
「吊り橋」が完成しました。
ゆらゆら揺れる橋でしたが、
1トン半以下のクルマなら、1度に1回限り、
時速8マイル(時速13キロ)以下の走行で渡る事が出来ました。
この吊り橋が出来ると、
当時4代目が仙台市が死亡率3位として悩んでいた「体力づくり」の
一環として計画していた「ハイキング道路」が完成した形です。
当時、橋を渡るとトンネルも存在していて、
道が崖がわに張り出した「片桟橋」などもあり、
変化に富んだハイキングコースになっていました。
「仙台の名所の1つ」「観光地」として当時数えられた場所、
今も形を変えて「観光地」と呼ばれていますが、
「八木山エリア」のスタートは、ここからだったのです。
大金をかけて野球場と遊園地を造り、2つの道路と橋を造り、
そしてポンと宮城県に寄付した八木久衛兵氏。
宮城県はその後、野球場や遊園地の維持費の捻出を考えて、
八木家に返還しました。
何故かというと、この野球場と遊園地の維持費は、
寄付した後も八木家が出していました。
役所も財政難だったのでしょうか。
その後の昭和9年に、改めて今度は「仙台市」に寄付しました。
上記で「亜炭」と記載をしましたが、
この亜炭の採掘の全盛期は、この昭和8〜9年頃でした。
埋木の採掘は江戸時代ですが、
明治時代以降は、主に風呂炊き用の燃料として利用されており、
越路付近の亜炭区は、20以上ありました。
第2次世界大戦中は、杭道が防空壕としても利用されており、
戦後も昭和30年代前半まで燃料として利用されていました。
その頃から、住宅造成などが開始。
向山エリア付近、緑ヶ丘エリアでスタートします。
仙台市営バスが、向山神社前まで来たのがこの頃です。
昭和36年、東北電子工業高等学校開校(現・東北工業大学高等学校)
昭和38年に、TBC東北放送の東北放送社屋完成
昭和39年、東北工業大学 開校
昭和40年、八木山動物公園 開園 /八木山橋完成
昭和43年、八木山ベニーランド 開園
昭和40年に入ってから、
現在の八木山エリアの原型が出来上がった状態があります。
八木山市民センターは、昭和62年の開館です。
昭和53年から設立要求されているようなので、
開館まで9年もかかっていた事になります。
現在、地下鉄東西線の工事が着々と進行しています。
八木山エリアが本格的に宅地造成されたのが昭和40年代として、
それが第1期とするならば、
現在、八木山の第2期が始まろうとしています。
遠い将来、この記事の中に、過去の出来事が記載されるような
出来事、「未来の記事」になるような事が起こる時期でしょう。
この未来の八木山エリアを造り上げるのは、
興味を持って八木山を見て頂いているあなたかも知れません。
昭和50年度 八木山エリア付近 航空写真
★★★