★★★
サイト運営開始から、1年と3ヶ月ほど。
「放送局Net」という名称を付けているのに、
地元の映像を配信していない不思議なサイトでございます。
のちにホームページで運用できるよう、準備中です。
ホームページですと、
どうしてもサーバー維持費がかかってしまうので、
スポンサーなども含めたあらゆる方向で進めています。
ホームページではなく、ブログのまま続けても良いとも
思ってもいますが、
いろいろと自由が効かないので、正直不便もあります。
見やすさ・見にくさもありますのでね。
今回は、そのテストとして、
2008年の八木山エリア・地下鉄東西線工事 開始付近の動画を
お馴染み「YouTube」に投稿、載せてみました。
ひとまず、この方式を使って「動画放送」をしてみようかと思います。
今では、だいぶ景色が変わったのが分かるでしょうか?
八木山市民センターの体育館の位置が違いますね。
この時期からでしたね、このサイトの運用に向けての
準備がスタートしたのは。
動画はホームページにしてからと思っていましたが、
今回の震災関連もあり、「至急を要する」部分もあったため、
アカウントを取っておきました。
多少の動画編集もしなくてはならないため、
今までの「写真」と違い、更新に手間がかかります・・(^_^;)
運営側で、HD録画のコンパクトムービーを入手していますので、
取材班は常備して生活するようにしています。
ただ画質は、それなりでしょうか(^_^;)
それでは「八木山放送局Net」、
第2ステップへ移行していこうと思います♪
★★★
2011年05月18日
2011年02月15日
八木山エリアの 古い写真
★★★
以前より告知しております
「八木山エリアの古い写真、集めてます」
みなさん、どうでしょうか?
このサイトもそうですが、
「何事も、形でお見せする」っていうのが、
一番良いのでしょうか(^_^;)
この写真は、「八木山本町1丁目エリア」の住宅地の写真です。
許可を取って掲載させて頂きます。
そしてこれが現在です。
古写真は、昭和48年とあります。
これだけで、いろいろ観察できますね。
当時の「電信柱」は、コンクリ製ではなく、木製ですね。
クルマは1970年に発売した、「トヨタ カローラ・クーペ」と思われます。
現在の景色からは、向こう側を見渡せませんね。
これが昭和40年代後半の八木山エリアでは、
「こういう景色が当たり前」という状態でした。
注目すべきは、古写真の向こう側に見える景色、
「赤枠」で囲った部分です。
景色から推測するに、「松が丘エリア」のようです。
写真を取る時に、
「アップ/ヨリ」というような形で撮ることも多いと思います。
特に「人を撮影しよう」とする時は、なおさらですね。
赤ちゃん、子供の写真はアップが多いのではないでしょうか?
ただ、写真を残す時の「コツ」というのでしょうか、
「アップ」も撮ったら、もう1枚は「引き」を撮って頂くと、
将来見る時に、楽しめることが多いんです。
引いた写真というのは、
「バック背景に、いろいろな情報が写っていることが多い」
んですね。
家の中1つとっても、
「昔のテレビだー」「昔のテーブルだー」
「昔の壁は穴が空いてたー」「昔の鳩時計だー」
などなど、
「昔の〜」が、いろいろ写っているんです。
「引きのアングルの方が、未来に見る時に、楽しみやすい」
という特徴があるんです。
「背景には、いろいろな情報が一杯詰まっている」んです♪
この景色も、その一つですね。
「松が丘エリア」の住宅地が、まだギッシリになっていない事が、
この古写真から見て取れる訳です。
大正15年に、八木家5代目によって「八木山開発」がスタートした
「八木山エリア」。
今や様々な場所が、仙台市内で宅地造成・開拓が進んでいますが、
仙台市でも「山を使った住宅開発」は、八木山が初めと言われています。
「道路」「野球場」「遊園地」、そして「住宅」という
「4つの大柱」で八木山開発をスタート、
5代目八木氏は資産を投入、現在の価格「約30億円」をかけた
計算になるそうです。
「八木山の景色も、財産の1つ」
みなさん、押し入れのアルバム、開いてくれませんか???
★★★
以前より告知しております
「八木山エリアの古い写真、集めてます」
みなさん、どうでしょうか?
このサイトもそうですが、
「何事も、形でお見せする」っていうのが、
一番良いのでしょうか(^_^;)
この写真は、「八木山本町1丁目エリア」の住宅地の写真です。
許可を取って掲載させて頂きます。
そしてこれが現在です。
古写真は、昭和48年とあります。
これだけで、いろいろ観察できますね。
当時の「電信柱」は、コンクリ製ではなく、木製ですね。
クルマは1970年に発売した、「トヨタ カローラ・クーペ」と思われます。
現在の景色からは、向こう側を見渡せませんね。
これが昭和40年代後半の八木山エリアでは、
「こういう景色が当たり前」という状態でした。
注目すべきは、古写真の向こう側に見える景色、
「赤枠」で囲った部分です。
景色から推測するに、「松が丘エリア」のようです。
写真を取る時に、
「アップ/ヨリ」というような形で撮ることも多いと思います。
特に「人を撮影しよう」とする時は、なおさらですね。
赤ちゃん、子供の写真はアップが多いのではないでしょうか?
ただ、写真を残す時の「コツ」というのでしょうか、
「アップ」も撮ったら、もう1枚は「引き」を撮って頂くと、
将来見る時に、楽しめることが多いんです。
引いた写真というのは、
「バック背景に、いろいろな情報が写っていることが多い」
んですね。
家の中1つとっても、
「昔のテレビだー」「昔のテーブルだー」
「昔の壁は穴が空いてたー」「昔の鳩時計だー」
などなど、
「昔の〜」が、いろいろ写っているんです。
「引きのアングルの方が、未来に見る時に、楽しみやすい」
という特徴があるんです。
「背景には、いろいろな情報が一杯詰まっている」んです♪
この景色も、その一つですね。
「松が丘エリア」の住宅地が、まだギッシリになっていない事が、
この古写真から見て取れる訳です。
大正15年に、八木家5代目によって「八木山開発」がスタートした
「八木山エリア」。
今や様々な場所が、仙台市内で宅地造成・開拓が進んでいますが、
仙台市でも「山を使った住宅開発」は、八木山が初めと言われています。
「道路」「野球場」「遊園地」、そして「住宅」という
「4つの大柱」で八木山開発をスタート、
5代目八木氏は資産を投入、現在の価格「約30億円」をかけた
計算になるそうです。
「八木山の景色も、財産の1つ」
みなさん、押し入れのアルバム、開いてくれませんか???
★★★
2010年11月12日
八木山に 走るはずだった「モノレール」
★★★
このサイトを開設した時から、
結構なページを取っている「地下鉄東西線」関連。
大半の方は知っていると思いますが、
八木山に「バス以外の交通機関がやってくる」という
「構想」は、地下鉄東西線が初めてではありません。
念のため、という感じで今回の記事にしたいと思います。
ま、お茶でも飲みながらご覧下さい。
八木山エリアに、初めて「公共交通機関」が来たのが、
「仙台市営バス」です。
それは、昭和31年のことです。
「向山入り口」から、「八木山神社前」までです。
「八木山線」と呼ばれる、「午前・午後の1本だけ」という
小さな路線が始まりです。
時代は流れ昭和47年、「仙台市交通計画委員会」から出された、
「地下鉄網計画」に、交通機関計画が出されます。
7路線が計画に上がりましたが、そのうちの
「南北軸」と「東西軸」の2系統に絞り込まれた
計画があります。
「南北軸」とは、現在走っている「地下鉄南北線」です。
当時の「東西軸」とは、現在建設中の「地下鉄東西線」ではなく、
「旧・地下鉄東西線」計画です。
そして、当時の石井仙台市長の時期に出されたのが、
「モノレール計画」でした。
「旧・地下鉄東西線計画」とは何か? というと、
仙台駅から「西公園まで仙石線の延長で対応する」
ということで計画されていた「仙台駅−西公園」の路線、
仙台駅から西公園までの「仙石線延長計画」が
「旧・地下鉄東西線計画」というものです。
つまり「仙石線」の仙台駅を「地下化」させて、
西公園までを「地下鉄」として直通運転させる計画だったのです。
さらに、そこから西公園の先で、勾配に強く道路上に高架で敷設できる
「モノレール」を採用して、
モノレール部分を「仙台市営モノレール南西線」として
計画されていました。
仙石線の件については、
当時、仙石線は駅東口に存在していた「地上駅」です。
平成12年に苦竹駅より先で地下化された仙石線ですが、
当初計画では、仙台駅〜西公園間の「旧・地下鉄東西線」で、
「仙石線」と「旧・地下鉄東西線」との
直通運転を視野に入れていました。
その後に「JR・仙石線」と「旧・地下鉄東西線計画」の
仙台駅の位置関係のズレなどで、「直通」は断念されましたが、
仙石線路線の渋滞緩和の目的もあり、
「仙石線の地下化」は残り、着工されました。
そして、この「旧・地下鉄東西線」と「モノレール計画」を
発案したのが、ゼネコン汚職で逮捕された
当時の石井仙台市長でした。
話は戻りまして「モノレール」です。
モノレール構想の駅は、
西公園駅 - 青葉山駅 - 八木山駅 - ひより台駅 - 茂庭台駅
でした。
さらに最終構想では、「愛子駅」まで伸ばす案でした。
これは、政令指定都市の、
「宮城町」と「仙台市」の合併における「バーター」で、
「愛子副都心構想」と言われるものと連動したものでした。
物々交換、いわゆるバーターは、
当時の政令指定都市の合併での「泉区」も同じで、
将監トンネル、地下鉄「泉中央駅」の建設、シェルコムせんだい、
仙台スタジアムの建設など、
仙台市が当時の「泉市」への合併してくれる変わりのバーター、
いわゆる合併する変わりの物々交換があったわけです。
現金取引するわけにはいかないですからね。。
その合併もあってか、
仙台市の中では、なにかと「泉区は優先される」という状態が
その後にも色々あったようです。
仙台市と「宮城町」合併の際のバーターは、
当時存在した「愛子構想」と連動した「モノレールの愛子駅」
だったわけです。
「モノレールが通る」とのふれ込みで販売した
「茂庭台団地」もありますね。
ただ茂庭台は、モノレール計画で開拓されたわけではなく、
昭和40年代に仙台市の人口集中によって住宅地不足が問題になって
開拓されたのが茂庭台団地です。
こういう点は、八木山エリアも同じです。
ただ、住宅販売で一定期間、「モノレールが通る」という
「売り文句」で販売された住宅が数多くあるということですね。
しかし、このモノレール計画は急に白紙になりました。
採算が全く取れないとして、
平成3年に「旧地下鉄東西線」と「モノレール南西線」の「断念」という、
当時の石井仙台市長から衝撃的な発表がありました。
バブルがはじけた事も大きかったのでしょう。
その代わりに発表されたのが、
八木山〜六丁の目間の東西交通軸を検討すると言うことでした。
これが、現在の「地下鉄東西線」という訳です。
当時の仙石線の地下からの延長という計画が変更、
東西線で八木山から仙台駅の直通、
そして六丁の目・荒井方面に結ぶという最終計画に
変わったわけですね。
地下鉄南北線と直結させるとか、JRと直結すればいいじゃないと
これまで思った人も多いと思いますが、
当初計画では色々と視野に入っていたわけですね。
モノレールが仮に通っていたら、
現在の地下鉄東西線の終着駅になっている「動物公園前」ではなく、
「ひより台」も経由して茂庭台に行くことになるわけです。
ひより台も、モノレール騒ぎがあったと聞いています。
モノレール計画の方が良かったと思う方も多いでしょう。
発展という意味で、当然ですね。
あの時は、誰でもモノレールが通ると信じていましたね。
今でも話題になるくらいですし。
「完成するまで分からない」と、工事はよく言いますが、
現在の地下鉄東西線でも、まだ分かりませんしね(^_^;)
ある意味、「採算が取れない」として中止されたモノレール、
工事の採算も高くて、利用人数と合わないと言うことですが、
地下鉄でも合わない可能性も高いでしょう。
それでも着工したのが、今の地下鉄東西線ですが、
偉いと思うのか、ダメだこりゃと思うのかは、
人によって、そして職業によって違うのでしょうね。
仙石線が西公園まで延びる〜
なんていう話は、サラーッと覚えている方も多いと思いますが、
地方から来た方は、こういう経緯だったんですよ♪
ちなみにこの絵は、取材班の友人が描いた「仙石線」です。
元祖・「鉄ちゃん」です。
特別に許可を頂きまして掲載しました。
色々と発表されていますので、有名なんですよ♪
個展もやっていますし♪
仙石線が、仙台駅東口にいた頃が懐かしいですね。
モノレールとか地下鉄などの案が出なければ、
この仙石線の地下化はなく、
ひょっとするとこの風景が残っていたかも知れませんね。
★★★
このサイトを開設した時から、
結構なページを取っている「地下鉄東西線」関連。
大半の方は知っていると思いますが、
八木山に「バス以外の交通機関がやってくる」という
「構想」は、地下鉄東西線が初めてではありません。
念のため、という感じで今回の記事にしたいと思います。
ま、お茶でも飲みながらご覧下さい。
八木山エリアに、初めて「公共交通機関」が来たのが、
「仙台市営バス」です。
それは、昭和31年のことです。
「向山入り口」から、「八木山神社前」までです。
「八木山線」と呼ばれる、「午前・午後の1本だけ」という
小さな路線が始まりです。
時代は流れ昭和47年、「仙台市交通計画委員会」から出された、
「地下鉄網計画」に、交通機関計画が出されます。
7路線が計画に上がりましたが、そのうちの
「南北軸」と「東西軸」の2系統に絞り込まれた
計画があります。
「南北軸」とは、現在走っている「地下鉄南北線」です。
当時の「東西軸」とは、現在建設中の「地下鉄東西線」ではなく、
「旧・地下鉄東西線」計画です。
そして、当時の石井仙台市長の時期に出されたのが、
「モノレール計画」でした。
「旧・地下鉄東西線計画」とは何か? というと、
仙台駅から「西公園まで仙石線の延長で対応する」
ということで計画されていた「仙台駅−西公園」の路線、
仙台駅から西公園までの「仙石線延長計画」が
「旧・地下鉄東西線計画」というものです。
つまり「仙石線」の仙台駅を「地下化」させて、
西公園までを「地下鉄」として直通運転させる計画だったのです。
さらに、そこから西公園の先で、勾配に強く道路上に高架で敷設できる
「モノレール」を採用して、
モノレール部分を「仙台市営モノレール南西線」として
計画されていました。
仙石線の件については、
当時、仙石線は駅東口に存在していた「地上駅」です。
平成12年に苦竹駅より先で地下化された仙石線ですが、
当初計画では、仙台駅〜西公園間の「旧・地下鉄東西線」で、
「仙石線」と「旧・地下鉄東西線」との
直通運転を視野に入れていました。
その後に「JR・仙石線」と「旧・地下鉄東西線計画」の
仙台駅の位置関係のズレなどで、「直通」は断念されましたが、
仙石線路線の渋滞緩和の目的もあり、
「仙石線の地下化」は残り、着工されました。
そして、この「旧・地下鉄東西線」と「モノレール計画」を
発案したのが、ゼネコン汚職で逮捕された
当時の石井仙台市長でした。
話は戻りまして「モノレール」です。
モノレール構想の駅は、
西公園駅 - 青葉山駅 - 八木山駅 - ひより台駅 - 茂庭台駅
でした。
さらに最終構想では、「愛子駅」まで伸ばす案でした。
これは、政令指定都市の、
「宮城町」と「仙台市」の合併における「バーター」で、
「愛子副都心構想」と言われるものと連動したものでした。
物々交換、いわゆるバーターは、
当時の政令指定都市の合併での「泉区」も同じで、
将監トンネル、地下鉄「泉中央駅」の建設、シェルコムせんだい、
仙台スタジアムの建設など、
仙台市が当時の「泉市」への合併してくれる変わりのバーター、
いわゆる合併する変わりの物々交換があったわけです。
現金取引するわけにはいかないですからね。。
その合併もあってか、
仙台市の中では、なにかと「泉区は優先される」という状態が
その後にも色々あったようです。
仙台市と「宮城町」合併の際のバーターは、
当時存在した「愛子構想」と連動した「モノレールの愛子駅」
だったわけです。
「モノレールが通る」とのふれ込みで販売した
「茂庭台団地」もありますね。
ただ茂庭台は、モノレール計画で開拓されたわけではなく、
昭和40年代に仙台市の人口集中によって住宅地不足が問題になって
開拓されたのが茂庭台団地です。
こういう点は、八木山エリアも同じです。
ただ、住宅販売で一定期間、「モノレールが通る」という
「売り文句」で販売された住宅が数多くあるということですね。
しかし、このモノレール計画は急に白紙になりました。
採算が全く取れないとして、
平成3年に「旧地下鉄東西線」と「モノレール南西線」の「断念」という、
当時の石井仙台市長から衝撃的な発表がありました。
バブルがはじけた事も大きかったのでしょう。
その代わりに発表されたのが、
八木山〜六丁の目間の東西交通軸を検討すると言うことでした。
これが、現在の「地下鉄東西線」という訳です。
当時の仙石線の地下からの延長という計画が変更、
東西線で八木山から仙台駅の直通、
そして六丁の目・荒井方面に結ぶという最終計画に
変わったわけですね。
地下鉄南北線と直結させるとか、JRと直結すればいいじゃないと
これまで思った人も多いと思いますが、
当初計画では色々と視野に入っていたわけですね。
モノレールが仮に通っていたら、
現在の地下鉄東西線の終着駅になっている「動物公園前」ではなく、
「ひより台」も経由して茂庭台に行くことになるわけです。
ひより台も、モノレール騒ぎがあったと聞いています。
モノレール計画の方が良かったと思う方も多いでしょう。
発展という意味で、当然ですね。
あの時は、誰でもモノレールが通ると信じていましたね。
今でも話題になるくらいですし。
「完成するまで分からない」と、工事はよく言いますが、
現在の地下鉄東西線でも、まだ分かりませんしね(^_^;)
ある意味、「採算が取れない」として中止されたモノレール、
工事の採算も高くて、利用人数と合わないと言うことですが、
地下鉄でも合わない可能性も高いでしょう。
それでも着工したのが、今の地下鉄東西線ですが、
偉いと思うのか、ダメだこりゃと思うのかは、
人によって、そして職業によって違うのでしょうね。
仙石線が西公園まで延びる〜
なんていう話は、サラーッと覚えている方も多いと思いますが、
地方から来た方は、こういう経緯だったんですよ♪
作・NORIHIRO *著作権指定/転機禁止
ちなみにこの絵は、取材班の友人が描いた「仙石線」です。
元祖・「鉄ちゃん」です。
特別に許可を頂きまして掲載しました。
色々と発表されていますので、有名なんですよ♪
個展もやっていますし♪
仙石線が、仙台駅東口にいた頃が懐かしいですね。
モノレールとか地下鉄などの案が出なければ、
この仙石線の地下化はなく、
ひょっとするとこの風景が残っていたかも知れませんね。
★★★
2010年10月12日
八木山の昔・歴史 物語
★★★
撮影:株式会社東北記録映画社
「八木山放送局Net」として、
このサイトの運営を開始したのが、平成22年2月12日です。
早いモノで、今日で8ヶ月が経ちました。
これを記念して? 八木山の歴史を復習したいと思いました。
来月11月3日にある「秋の八木山フェスタ 2010」の
「前フリ」のような狙いもありますが、
楽しんで頂ければと思います。
さて、「八木山」というエリア、
みなさんはどのようなイメージを持つでしょうか?
最近、八木山をテーマとしたポスターを、八木山小学校・八木山南小学校
の生徒の皆さんに描いて頂きました。
「八木山フェスタ」でコンクールします。
応募作品は共催の各施設、子供会の地区の掲示告知なとに役立てるため、
優秀作品を表彰する予定になっています。
子供の目線では、「八木山」という場所をどう見ているでしょか。
大人でも、「八木山をイメージする」というテーマになると、
かなり難しいテーマです。
八木山動物園? 八木山ベニーランド? 東北工業大学?
八木山市民センター?日赤病院? 八木山橋? ・・・・
例えばこれらの施設を「単体」で描いてしまうと、
その施設のポスターとなってしまいますね。 「営業用」のように。
「八木山全体」として表現すると、なかなか難しい気がします。
色々な施設を羅列させてしまうと、
「との地域にもある、似たようなポスター」になりますしね。
「八木山ならでは」という表現にはならないと思います。
八木山の昔の名は「越路山」
「山を越える路であったことから付いた」
「鹿が恋をして、恋路で駆ける山」ということで
「越路」という意味とも言われたそうです。
江戸時代、仙台城と隣接していた越路山は、
防衛上で重要な場所だったために、藩政時代は「お止め山」と呼ばれ、
「一般人の立ち入り禁止区域」でした。
他に、山田、金剛沢、芦の口などの6つの山も同様です。
すなわち、関係者以外は、
人が踏み込まなかったエリアということ。
そのために樹木の鬱蒼とした大森林だったのです。
その後、「金剛沢」で亜炭が原木である、
そして仙台名産品でもある埋木細工の「埋木」が
発見されたのが江戸時代後期・1822年です。
埋木灰という最高級の灰。
亜炭層に含まれていて、埋木は炭化しているために、きめが細かい灰です。
亜炭層は青葉山段丘にあり、現在では主に大橋の付近にあります。
凝灰岩層の凝灰岩は、火山で起きた溶岩が堆積したもで、
溶岩の熱で蒸されて炭化した木が「埋木」です。
埋木は、家財道具に細工するなどして出来きますが、
これが埋木細工です。
現在では採掘されていません。
そして明治時代。
明治維新となって職を失った旧藩士840名に、
この越路山が仙台藩から与えられたのです。
今で言うと、国や県、市などが持つ土地の売却、
「払い下げ」というものです。
その土地で、木々の資源がありますので、
商売が出来ます。
しかしその後に国有地に編入する事になり
控訴問題に発展します。
今で言うと、仙台の問題に国が介入してきたという
ことですね。
「俺の土地だ!山だ!」 という訴訟問題です。
そして明治38年に、やっと840人の共有地という事で
解決しましたが、
その問題の間に、松などの大木は伐採されてしまったのです。
その後、大正時代になって樹木の伐採問題で業者と所有者の間で
訴訟問題が続発、
「訴訟の山」と呼ばれるまでになりました。
そこで、この問題に心を痛めていたのが4代目八木久衛兵氏です。
この頃の仙台市の死亡率は、全国3位という不名誉のモノでした。
4代目は、緑いっぱいの空気が綺麗な山に、
仙台市民の健康増進のため、パラダイスを造ろうと計画したのです。
そして、この「訴訟問題」に心を痛めていたため、
「訴訟ごと越路山を買い取る」という手段に出ます。
この4代目は七十七銀行の八代目頭取、
味噌造りなどの商売でも有名だった大富豪です。
しかし志半ばで4代目は死去、
意志を継いだのが5代目八木久兵衛氏です。
この5代目の時に「越路山」の買い取りを完了、
大正13年の事です。
この時に、越路山が「八木家の山」となりました。
その2年後の大正15年、
向山の長徳寺前から「向山ルート」の道路工事に着手、
昭和4年に完成。
この向山ルート同時進行するように、
昭和2年には、現在の八木山動物公園の場所に
「八木山野球場」の工事に着手します。
なぜ野球場なのかと言えば、
この頃の人気ナンバーワンのスポーツが野球だったのです。
それまでの仙台市には、大正12年完成の
仙台サンプラザ付近の「仙台体協球場」、
昭和4年完成、薬師堂「スポーツマン球場」がありました。
大きさは、東京の神宮球場と同じ大きさの、スタンド付きの野球場。
総面積33,000u、東北ナンバー1の野球場でした。
完成したのが昭和4年6月23日です。
仙台市では「3番目の野球場」との記録になっています。
さらに昭和6年と昭和9年には、アメリカ野球選抜チーム来て、
この八木山野球場で試合を行っています。
昭和9年のメンバーには野球王であるベーブ・ルースが参加しており、
八木山野球場で来日初ホームランを放っています。
現在、アフリカ園に銅像があります。
当時、このホームランボールを「清水浩三氏」がたまたま拾い、
その夜の宿舎で、ベーブ・ルースにサインまでしてもらい、
家宝にしていたそうです。
当時、このホームランボールは行方不明として、
ファンの間では大捜索もしていたようですが、
「幻の打球」と言われていました。
民衆の間では行方不明として騒がれていたボールは、
昭和47年に河北新報に「幻のボール見つかる」という
記事が掲載され、再び大騒ぎになりました。
この八木山野球場の完成が昭和4年、
向山ルートの完成も昭和4年ですので、この時期に合わせた形です。
さらに子供専用の「第一遊園地」、
運動専用の「第2遊園地」を続けざまに建設。
遊園地の場所は、現在の動物公園周辺です。
八木山市民センター付近と、さらにその住宅界隈が、
その遊園地の跡地です。
弓道場、テニスコート、バスケット、ラグビーなどが出来る総合運動場で、
いつでも道具を無料で貸し出ししていたそうです。
現在では「公園」と呼ばれるような施設ですが、
当時では「遊園地」と呼ばれる贅沢な施設でした。
向山ルートも野球場も、「すべてツルハシやスコップを用いた」
人力・人海戦術の工事でした。
ブルドーザーなどの重機は一切使っていないで造っています。
この頃は大不況の頃で、さらに農家でも不作の年の連続でした。
失業者や農家の人々は、この工事のおかげで大変救われたそうです。
この野球場は、作り終わった後に宮城県に「寄付」される太っ腹ぶりでした。
そしてさらに同時進行していたのが「八木山橋」の建設です。
やはり仙台市中心部からの「近道」は「青葉城趾ルート」です。
そのためには竜の口渓谷に橋を架ける必要がありました。
しかし、青葉城趾付近一帯が「陸軍用地」だったため、
橋を架ける認可がかなり難しかったようです。
しかし認可に漕ぎ着け、昭和6年8月、
幅3.6メートル、長さ108メートルの八木山橋の原型、
「吊り橋」が完成しました。
ゆらゆら揺れる橋でしたが、
1トン半以下のクルマなら、1度に1回限り、
時速8マイル(時速13キロ)以下の走行で渡る事が出来ました。
この吊り橋が出来ると、
当時4代目が仙台市が死亡率3位として悩んでいた「体力づくり」の
一環として計画していた「ハイキング道路」が完成した形です。
当時、橋を渡るとトンネルも存在していて、
道が崖がわに張り出した「片桟橋」などもあり、
変化に富んだハイキングコースになっていました。
「仙台の名所の1つ」「観光地」として当時数えられた場所、
今も形を変えて「観光地」と呼ばれていますが、
「八木山エリア」のスタートは、ここからだったのです。
大金をかけて野球場と遊園地を造り、2つの道路と橋を造り、
そしてポンと宮城県に寄付した八木久衛兵氏。
宮城県はその後、野球場や遊園地の維持費の捻出を考えて、
八木家に返還しました。
何故かというと、この野球場と遊園地の維持費は、
寄付した後も八木家が出していました。
役所も財政難だったのでしょうか。
その後の昭和9年に、改めて今度は「仙台市」に寄付しました。
上記で「亜炭」と記載をしましたが、
この亜炭の採掘の全盛期は、この昭和8〜9年頃でした。
埋木の採掘は江戸時代ですが、
明治時代以降は、主に風呂炊き用の燃料として利用されており、
越路付近の亜炭区は、20以上ありました。
第2次世界大戦中は、杭道が防空壕としても利用されており、
戦後も昭和30年代前半まで燃料として利用されていました。
その頃から、住宅造成などが開始。
向山エリア付近、緑ヶ丘エリアでスタートします。
仙台市営バスが、向山神社前まで来たのがこの頃です。
昭和36年、東北電子工業高等学校開校(現・東北工業大学高等学校)
昭和38年に、TBC東北放送の東北放送社屋完成
昭和39年、東北工業大学 開校
昭和40年、八木山動物公園 開園 /八木山橋完成
昭和43年、八木山ベニーランド 開園
昭和40年に入ってから、
現在の八木山エリアの原型が出来上がった状態があります。
八木山市民センターは、昭和62年の開館です。
昭和53年から設立要求されているようなので、
開館まで9年もかかっていた事になります。
現在、地下鉄東西線の工事が着々と進行しています。
八木山エリアが本格的に宅地造成されたのが昭和40年代として、
それが第1期とするならば、
現在、八木山の第2期が始まろうとしています。
遠い将来、この記事の中に、過去の出来事が記載されるような
出来事、「未来の記事」になるような事が起こる時期でしょう。
この未来の八木山エリアを造り上げるのは、
興味を持って八木山を見て頂いているあなたかも知れません。
昭和50年度 八木山エリア付近 航空写真
★★★
撮影:株式会社東北記録映画社
「八木山放送局Net」として、
このサイトの運営を開始したのが、平成22年2月12日です。
早いモノで、今日で8ヶ月が経ちました。
これを記念して? 八木山の歴史を復習したいと思いました。
来月11月3日にある「秋の八木山フェスタ 2010」の
「前フリ」のような狙いもありますが、
楽しんで頂ければと思います。
さて、「八木山」というエリア、
みなさんはどのようなイメージを持つでしょうか?
最近、八木山をテーマとしたポスターを、八木山小学校・八木山南小学校
の生徒の皆さんに描いて頂きました。
「八木山フェスタ」でコンクールします。
応募作品は共催の各施設、子供会の地区の掲示告知なとに役立てるため、
優秀作品を表彰する予定になっています。
子供の目線では、「八木山」という場所をどう見ているでしょか。
大人でも、「八木山をイメージする」というテーマになると、
かなり難しいテーマです。
八木山動物園? 八木山ベニーランド? 東北工業大学?
八木山市民センター?日赤病院? 八木山橋? ・・・・
例えばこれらの施設を「単体」で描いてしまうと、
その施設のポスターとなってしまいますね。 「営業用」のように。
「八木山全体」として表現すると、なかなか難しい気がします。
色々な施設を羅列させてしまうと、
「との地域にもある、似たようなポスター」になりますしね。
「八木山ならでは」という表現にはならないと思います。
八木山の昔の名は「越路山」
「山を越える路であったことから付いた」
「鹿が恋をして、恋路で駆ける山」ということで
「越路」という意味とも言われたそうです。
江戸時代、仙台城と隣接していた越路山は、
防衛上で重要な場所だったために、藩政時代は「お止め山」と呼ばれ、
「一般人の立ち入り禁止区域」でした。
他に、山田、金剛沢、芦の口などの6つの山も同様です。
すなわち、関係者以外は、
人が踏み込まなかったエリアということ。
そのために樹木の鬱蒼とした大森林だったのです。
その後、「金剛沢」で亜炭が原木である、
そして仙台名産品でもある埋木細工の「埋木」が
発見されたのが江戸時代後期・1822年です。
埋木灰という最高級の灰。
亜炭層に含まれていて、埋木は炭化しているために、きめが細かい灰です。
亜炭層は青葉山段丘にあり、現在では主に大橋の付近にあります。
凝灰岩層の凝灰岩は、火山で起きた溶岩が堆積したもで、
溶岩の熱で蒸されて炭化した木が「埋木」です。
埋木は、家財道具に細工するなどして出来きますが、
これが埋木細工です。
現在では採掘されていません。
そして明治時代。
明治維新となって職を失った旧藩士840名に、
この越路山が仙台藩から与えられたのです。
今で言うと、国や県、市などが持つ土地の売却、
「払い下げ」というものです。
その土地で、木々の資源がありますので、
商売が出来ます。
しかしその後に国有地に編入する事になり
控訴問題に発展します。
今で言うと、仙台の問題に国が介入してきたという
ことですね。
「俺の土地だ!山だ!」 という訴訟問題です。
そして明治38年に、やっと840人の共有地という事で
解決しましたが、
その問題の間に、松などの大木は伐採されてしまったのです。
その後、大正時代になって樹木の伐採問題で業者と所有者の間で
訴訟問題が続発、
「訴訟の山」と呼ばれるまでになりました。
そこで、この問題に心を痛めていたのが4代目八木久衛兵氏です。
この頃の仙台市の死亡率は、全国3位という不名誉のモノでした。
4代目は、緑いっぱいの空気が綺麗な山に、
仙台市民の健康増進のため、パラダイスを造ろうと計画したのです。
そして、この「訴訟問題」に心を痛めていたため、
「訴訟ごと越路山を買い取る」という手段に出ます。
この4代目は七十七銀行の八代目頭取、
味噌造りなどの商売でも有名だった大富豪です。
しかし志半ばで4代目は死去、
意志を継いだのが5代目八木久兵衛氏です。
この5代目の時に「越路山」の買い取りを完了、
大正13年の事です。
この時に、越路山が「八木家の山」となりました。
その2年後の大正15年、
向山の長徳寺前から「向山ルート」の道路工事に着手、
昭和4年に完成。
この向山ルート同時進行するように、
昭和2年には、現在の八木山動物公園の場所に
「八木山野球場」の工事に着手します。
なぜ野球場なのかと言えば、
この頃の人気ナンバーワンのスポーツが野球だったのです。
それまでの仙台市には、大正12年完成の
仙台サンプラザ付近の「仙台体協球場」、
昭和4年完成、薬師堂「スポーツマン球場」がありました。
大きさは、東京の神宮球場と同じ大きさの、スタンド付きの野球場。
総面積33,000u、東北ナンバー1の野球場でした。
完成したのが昭和4年6月23日です。
仙台市では「3番目の野球場」との記録になっています。
さらに昭和6年と昭和9年には、アメリカ野球選抜チーム来て、
この八木山野球場で試合を行っています。
昭和9年のメンバーには野球王であるベーブ・ルースが参加しており、
八木山野球場で来日初ホームランを放っています。
現在、アフリカ園に銅像があります。
当時、このホームランボールを「清水浩三氏」がたまたま拾い、
その夜の宿舎で、ベーブ・ルースにサインまでしてもらい、
家宝にしていたそうです。
当時、このホームランボールは行方不明として、
ファンの間では大捜索もしていたようですが、
「幻の打球」と言われていました。
民衆の間では行方不明として騒がれていたボールは、
昭和47年に河北新報に「幻のボール見つかる」という
記事が掲載され、再び大騒ぎになりました。
この八木山野球場の完成が昭和4年、
向山ルートの完成も昭和4年ですので、この時期に合わせた形です。
さらに子供専用の「第一遊園地」、
運動専用の「第2遊園地」を続けざまに建設。
遊園地の場所は、現在の動物公園周辺です。
八木山市民センター付近と、さらにその住宅界隈が、
その遊園地の跡地です。
弓道場、テニスコート、バスケット、ラグビーなどが出来る総合運動場で、
いつでも道具を無料で貸し出ししていたそうです。
現在では「公園」と呼ばれるような施設ですが、
当時では「遊園地」と呼ばれる贅沢な施設でした。
向山ルートも野球場も、「すべてツルハシやスコップを用いた」
人力・人海戦術の工事でした。
ブルドーザーなどの重機は一切使っていないで造っています。
この頃は大不況の頃で、さらに農家でも不作の年の連続でした。
失業者や農家の人々は、この工事のおかげで大変救われたそうです。
この野球場は、作り終わった後に宮城県に「寄付」される太っ腹ぶりでした。
そしてさらに同時進行していたのが「八木山橋」の建設です。
やはり仙台市中心部からの「近道」は「青葉城趾ルート」です。
そのためには竜の口渓谷に橋を架ける必要がありました。
しかし、青葉城趾付近一帯が「陸軍用地」だったため、
橋を架ける認可がかなり難しかったようです。
しかし認可に漕ぎ着け、昭和6年8月、
幅3.6メートル、長さ108メートルの八木山橋の原型、
「吊り橋」が完成しました。
ゆらゆら揺れる橋でしたが、
1トン半以下のクルマなら、1度に1回限り、
時速8マイル(時速13キロ)以下の走行で渡る事が出来ました。
この吊り橋が出来ると、
当時4代目が仙台市が死亡率3位として悩んでいた「体力づくり」の
一環として計画していた「ハイキング道路」が完成した形です。
当時、橋を渡るとトンネルも存在していて、
道が崖がわに張り出した「片桟橋」などもあり、
変化に富んだハイキングコースになっていました。
「仙台の名所の1つ」「観光地」として当時数えられた場所、
今も形を変えて「観光地」と呼ばれていますが、
「八木山エリア」のスタートは、ここからだったのです。
大金をかけて野球場と遊園地を造り、2つの道路と橋を造り、
そしてポンと宮城県に寄付した八木久衛兵氏。
宮城県はその後、野球場や遊園地の維持費の捻出を考えて、
八木家に返還しました。
何故かというと、この野球場と遊園地の維持費は、
寄付した後も八木家が出していました。
役所も財政難だったのでしょうか。
その後の昭和9年に、改めて今度は「仙台市」に寄付しました。
上記で「亜炭」と記載をしましたが、
この亜炭の採掘の全盛期は、この昭和8〜9年頃でした。
埋木の採掘は江戸時代ですが、
明治時代以降は、主に風呂炊き用の燃料として利用されており、
越路付近の亜炭区は、20以上ありました。
第2次世界大戦中は、杭道が防空壕としても利用されており、
戦後も昭和30年代前半まで燃料として利用されていました。
その頃から、住宅造成などが開始。
向山エリア付近、緑ヶ丘エリアでスタートします。
仙台市営バスが、向山神社前まで来たのがこの頃です。
昭和36年、東北電子工業高等学校開校(現・東北工業大学高等学校)
昭和38年に、TBC東北放送の東北放送社屋完成
昭和39年、東北工業大学 開校
昭和40年、八木山動物公園 開園 /八木山橋完成
昭和43年、八木山ベニーランド 開園
昭和40年に入ってから、
現在の八木山エリアの原型が出来上がった状態があります。
八木山市民センターは、昭和62年の開館です。
昭和53年から設立要求されているようなので、
開館まで9年もかかっていた事になります。
現在、地下鉄東西線の工事が着々と進行しています。
八木山エリアが本格的に宅地造成されたのが昭和40年代として、
それが第1期とするならば、
現在、八木山の第2期が始まろうとしています。
遠い将来、この記事の中に、過去の出来事が記載されるような
出来事、「未来の記事」になるような事が起こる時期でしょう。
この未来の八木山エリアを造り上げるのは、
興味を持って八木山を見て頂いているあなたかも知れません。
昭和50年度 八木山エリア付近 航空写真
★★★
2010年06月28日
八木山散策 〜 歩こう編 〜
★★★
八木山を、フラッと散歩してみましょうか。
八木山動物公園前を、COCO’S八木山店さんの方面に
歩いてみました。
今は地下鉄東西線工事の関係で、使用されていない道があります。
右側に上り口のある、「旧・動物公園駐車場入り口」。
実はこの上り入り口道路、八木山動物公園が「八木山野球場」
だった時代、昭和4年頃からずっと存在していた道です。
車が通っていない時代の頃からの。
写真に見える片側2車線の本道は、
この付近が宅地造成された昭和40年前半に「新たに出来た道」です。
その頃までの「本道」は、この上り口の道路でした。
ヤマザキショップ前の交差点から、八木山小学校方面に下ると、
一軒の酒屋さんがあります。 「半田酒店」さん。
昭和50年頃からありますね。
この辺りでは、一番歴史のある長いお店・酒屋さんです。
さらに下り、サンクスさんを左に曲がるとある薬局屋さん、
「八木山薬局」さん。
ここの薬局さんも長いですね。
ホワイト急便さんも併設して営業しています。
道なりに進み、散髪屋さん「スズラン」さんを右に曲がります。
ロータリーがあるエリアにある、同じく長いお店があります。
八木山エリアで知らない人はいない「団子屋」さん、
「よこたや」さんですね。
美味しい団子、もち、おはぎなど、お茶のお供に欠かせない、
昔ながらの「八木山の名店」です。
隣には「街の電器屋さん」の日立電器の「タツデン」さんがあります。
道沿いに進むと、八百屋さんの「佐重商店」さん、
美味しいお肉屋さんで有名な「海老沢精肉店」さんがあります。
さらに先には、八木山で有名な「福寿司」さんがあります。
みやぎ生協八木山店があった場所ですが、
今も変わらず、頑張って営業しています。
少し下りますと、洋服の直し店「ハッピーリフォーム」さん、
クリーニングの「白王舎」さんがあります。
ちょっと暗くなってきましたね。
八木山小学校から下った先、住宅地にある「八木山の秘境」、
「定食の佐々久」さんがあります。
東北大・工大さんの学生さんがよく来店しています。
日によっては、行列もあります。
「ザーカイ天定食」「とりの唐揚げ定食」など、
一言で言えば「食べきれない量」の定食で、
「学生さんの思い出の地」となっていますね。
次の日になりました。
ちょっと芦の口エリアまで下ってみました。
竹やぶがある道路があります。
竹やぶがある場所は、昔から変わらぬ場所とよく言われますね。
「かねこクリニック」さんの前を通り過ぎると、
現在、工事が真っ最中の道路に出ますね。
都市計画道路「長町八木山線」の芦の口エリアです。
今年度中に、暫定的に「片側一車線」で、
一部区間の開通を目指しているそうです。
全線開通までは、5年以内を目指しているようです。
この道、こうなる前は車が通りすぎるのさえ困難な道でした。
この道が、八木山の流れを変える、最重要の道路となる予定です。
次は、どこを散歩しましょうか・・。
★★★
八木山を、フラッと散歩してみましょうか。
八木山動物公園前を、COCO’S八木山店さんの方面に
歩いてみました。
今は地下鉄東西線工事の関係で、使用されていない道があります。
右側に上り口のある、「旧・動物公園駐車場入り口」。
実はこの上り入り口道路、八木山動物公園が「八木山野球場」
だった時代、昭和4年頃からずっと存在していた道です。
車が通っていない時代の頃からの。
写真に見える片側2車線の本道は、
この付近が宅地造成された昭和40年前半に「新たに出来た道」です。
その頃までの「本道」は、この上り口の道路でした。
ヤマザキショップ前の交差点から、八木山小学校方面に下ると、
一軒の酒屋さんがあります。 「半田酒店」さん。
昭和50年頃からありますね。
この辺りでは、一番歴史のある長いお店・酒屋さんです。
さらに下り、サンクスさんを左に曲がるとある薬局屋さん、
「八木山薬局」さん。
ここの薬局さんも長いですね。
ホワイト急便さんも併設して営業しています。
道なりに進み、散髪屋さん「スズラン」さんを右に曲がります。
ロータリーがあるエリアにある、同じく長いお店があります。
八木山エリアで知らない人はいない「団子屋」さん、
「よこたや」さんですね。
美味しい団子、もち、おはぎなど、お茶のお供に欠かせない、
昔ながらの「八木山の名店」です。
隣には「街の電器屋さん」の日立電器の「タツデン」さんがあります。
道沿いに進むと、八百屋さんの「佐重商店」さん、
美味しいお肉屋さんで有名な「海老沢精肉店」さんがあります。
さらに先には、八木山で有名な「福寿司」さんがあります。
みやぎ生協八木山店があった場所ですが、
今も変わらず、頑張って営業しています。
少し下りますと、洋服の直し店「ハッピーリフォーム」さん、
クリーニングの「白王舎」さんがあります。
ちょっと暗くなってきましたね。
八木山小学校から下った先、住宅地にある「八木山の秘境」、
「定食の佐々久」さんがあります。
東北大・工大さんの学生さんがよく来店しています。
日によっては、行列もあります。
「ザーカイ天定食」「とりの唐揚げ定食」など、
一言で言えば「食べきれない量」の定食で、
「学生さんの思い出の地」となっていますね。
次の日になりました。
ちょっと芦の口エリアまで下ってみました。
竹やぶがある道路があります。
竹やぶがある場所は、昔から変わらぬ場所とよく言われますね。
「かねこクリニック」さんの前を通り過ぎると、
現在、工事が真っ最中の道路に出ますね。
都市計画道路「長町八木山線」の芦の口エリアです。
今年度中に、暫定的に「片側一車線」で、
一部区間の開通を目指しているそうです。
全線開通までは、5年以内を目指しているようです。
この道、こうなる前は車が通りすぎるのさえ困難な道でした。
この道が、八木山の流れを変える、最重要の道路となる予定です。
次は、どこを散歩しましょうか・・。
★★★